-デヴィッド・ヒューム-キリスト教への信仰とは:「熱狂」に身を投じる事。メモ
「神の存在証明」で信仰が深まるのではない(P.30〜)
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- 奇跡の体験の証言について愕然性から神の存在証明述べるパターンと
- 自然の秩序の「合目的性」から証明述べるパターンと。
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- ↑実際、神の存在証明に依って、到底「堅固な信仰」の基礎とはなり得るものでもない。
- 別種の説明できる仮説が成り立つから
- ∴絶対性が求められない
- "こうした"本能的直感に発する形而上的議論(:「神の存在証明」の上のアイディアのこと)
- これに対して出される別パターン:「恩寵といった啓示に基づく具体的で現実的な信仰」
- ⇒これでも疑うに十分な理由がある。
- ⇒これでも疑うに十分な理由がある。
- これに対して出される別パターン:
ということから、ヒュームは、
- 「キリスト教の信仰を保持する事は、非合理的な『迷信』にあくまでも固執する事でしかない」
- 「狂気に近い熱狂に身を投じる事でしかない」
→→デリダの「決定の狂気」
「人間理性」の働きの区別 (P.40〜51)
ヒューム以前:
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- 知識:エピステーメ、スキエンティア
- 愕然性つまり「信念」:ドグサ、オピニオ
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⇒知識というのを「観念の比較」から生じる明証性と定義してきた。
⇒ヒューム、三種類に分ける
- proof(確証)
- knowledge(知識)
- probability(愕然性)
↑etc.「日が昇って沈む」という現象
から得られるような、因果関係からの愕然性の明証性から