「権威」について/「政治の暴力行使は例示的でなければならない」とは
梅垣先生「現代政治論」第7回・第8回(2005年6/9、6/16)よりメモ
(以下は前ふり)
『政治』→社会の希少な資源をめぐる競合
『政策』
→社会の希少な資源が
権威的に
配分決定されている
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- ある政策が「受け入れられている」という状況そのものが「権威的にはたらいている」こと
∴
稼働要件
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- ↑そもそも近代の政治思想の根幹にあったのは、
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「何が何をもって資源配分を権威的なものにしているのか」についての問いだった
(→ホッブス:万人の万人に対する「自然状態」にならない仕組み)
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- →政策によって不利益を訴える「抵抗」を排除・抑えるのが可能な「権威」
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一定数の「政策への不服従」層があることに対して最終的に政治は「暴力の行使」を留保している
(前ふり以上)
↑ちなみに「人間とは理性を持っている存在である」という人間観が前提の発想でもある
【これより本題】
「政治の稼働要件3」
より
- 「配分決定」(:政策)の拘束力を最終的に保証するものは??
- ↑その「暴力」行使というものは例示的でなければならないのはなぜか?
▽【ex.】▽
- 交通規則の「スピード違反取り締まり」など
- 殺人事件など
- ↑100%網羅的に違反者を逮捕しては“ならない”のはなぜか?
- 全ての「不服従」に対して「暴力の行使」は網羅的であってはいけないのはなぜか?
↑∵例外なく逮捕しようとすると“権威が例示的ではなくなる”ということ
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- 「単純にコストの問題」「政治的寛容を示す」ということ以上に
- 例示的でなければ<法>の決定の拘束力が担保できないから
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∵ex.「網羅的に例外無しに違反者を逮捕しなければならない」とした場合
- →「一人捕り逃した」という例外が発生!してしまったら
- その例外によってその<法>の拘束力が弱まってしまうことにもなる
- OR 「ありとあらゆる違反者を網羅」しないと「その規則の拘束力も無い」とすると
→<法>の拘束力を維持すること自体至難のわざとなる
OR 事実上「拘束力が無いことと同じ状態」を作ってしまう
∴政策決定の拘束力において留保されている「暴力の行使」は
常に「例示的でなければならない」となる
“警察は網羅的な逮捕をしないことで、権威的資源の配分を担保している”