蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

タイトル画像こけら落とし ナショナリスティック+漂流

今日カラ看板ノたいとる画像ヲ、新シイ絵ニ替エマシタノ。前ノ作品ハ、ぶっくまーくデ存続デスワ。
今回、だいありーヲ飾ル専用ニ描キ上ゲマシタノ。
うつくるしいですね!
ま、なんか、、本日のダイアリー画像の写真状態の方が、アートっぽいんだけど。
ほよとほー!
はいあはー!
7/1現在まだ、スタイルシートのレイアウト調整中です。
それと原画もウェブ上に載ると、スクリーントーンのカット面が浮いて出てしまってるなあ、とか気になる点があり、それもPhotoshop微修正する事に。*1



ロゴはPhotoshopで作りしけれど、絵は紙上へのペン、インクのアナログ原稿なりぬ 
過程にてまづは、ペンでの描き込みを最終完成までの5〜6割に留めをき 
其処へ取りい出したるスクリーントーン 何れも黒点ばかりなる模様なれど数十あれば、げに小紋を鮮やかにうち広げたるやう その様眺むれば、しばし吾が脳和まん
やがて、トーンを取つ替え引つ換え、シーツの皺に充ててみし此れ如何なりけん、鶴の清けき陰に充ててみし此れも如何ならむなどと、切つては貼つてをし、更にトーンの網点ニードルでうち削りて、描画の調子を高めたり
今にして原画の表面見なば、其れトーンの継ぎ接ぎ、ホワイト液の痕、いとど凄まじひとさへ思ひけり やがて、有形の紙上の絵の儚さをも湛へたると見ゆ


これはスキャンで取り込んだ画像ですので、スクリーントーンのフィルム自体による曇ったようなグレーの調子になってるのがそのまま、という状態です。
通常見ている漫画は印刷通してますので、印刷では白と黒のみで出力されるので(まさに二次元と言うべきか)、同じペンとスクリーントーンの絵でも印象は違って見えてると思います。

アイディアスケッチは、とる方?とらない方?

せっかくのこけら落としなので、何かもう少し話しましょう。
次の日記更新はまた4週間くらい間が空きそうなので。


えーと、今後ここを通りすがりで読んでる中にも、美術を専門とする方もおられるだろうと思います。
突然ですが、わたしは、アイディアスケッチというものを、全然とらないタイプなのです。わたしは高校も美術科だったのですが、その頃から先生に「アイディアスケッチを描きなさい」と指導されてきたのですが、どうも、それが出来ない人間なんですね。ほとんどの方はアイディアスケッチするもんだという頭で書いてますが、実際、どうでしょう。
わたしも下書きのためのスケッチというのなら、しますが。絵を描きながらアイディアを煮詰めていくという過程が、わたしにとってはあまり無いんです。
「今回ハ試シニ、あいでぃあすけっちヲヤッテミヨウカ」ト思イ立チ描キ始メテモ、結局ハ、1枚目描ク迄モナクスグニ手ガ止マッテ、頭ノ中ダケデ考エルもーどニナッテシマウンデスノ。
アイディアスケッチするタイプの人の作品、しないタイプの作品って、何か傾向とかあるんでしょうかね。どうなんだろ。
もし「アイディアスケッチには妙に自信ある」という方、おられましたら、ブログで画像公開して、当日記にお知らせ下さい。

わたしも、コピーやコンピュータを使って、コラージュで簡単に構成やってそれをとっかかりにアイディア思索する、というのはたまにやってきました。やはり、最初の段階では、描くよりも、切り抜きや写真などの「ありもん」を切ったり貼ったりする動作の方が、「考えることに集中しやすい」という感じがあるんですね。


また、コラージュでなければ、「言葉を書き出していく」という方法になる。思い付きの瞬間に絵では間に合わないから。というか、これは、わたしが言葉で思い付くタイプだから、ということなのかもしれません。
「アイディア段階」でのスケッチに代わる方法として、いわゆるブレーンストーミングとかKJ法と言われているのを勝手に簡略化したようなことをしてます。



(KJ法参照:http://www.ritsumei.ac.jp/~yamai/kj.htm)


KJ法をごくごく大雑把に今説明すれば、
(1). 付箋のカードを用意。何色かあると便利。カラーのボールペン、マーカーペンも何色かあると便利。
(2). そこへひたすら思い付くまま言葉を書き出す。なるべく単語で書くのがポイントとされてる。
(3). カード同士関連性つけて並べていく
というアイディア発想法というかアイディアまとめ法ですね。ただ、わたしは挙げたURLで説明されているような、厳密な手順は必ずしも踏んでなくて、「ステップ1. カードをたくさん書いて広げる」「ステップ2. 関連性があるカード同士を選り分けていく」までやってから以降の、カード同士をマインドマップのように空間配置していく過程は実際にはやらず、ただカードを眺め脳内で練る、という具合です。
セッカクNova Mindトイウそふとヲ持ッテイルンデスガ、タマノ清書用ニシカ使ッテマセンノ。私達ハ、あなろぐ・紙デ作業スル方ガ考エマトメヤスインデスノ。
附箋カードだけでなく、撮り溜めた写真やスクラップの切り抜きとかも一緒にします。あと、B6版の京大式カード(もしくは情報カードと呼ばれる)でのメモとかも。情報カードは、外出で持って出るのに便利で気に入ってます。
こうしたカード並べもまた、コラージュの動作ですね。
コラージュと言へば、アルチンボルド
とまあ、このような感じで、
情報カードは気分的に、適当な落書きでメモしやすい文具です。(物の説明するって、自然と口調がテレショップみたいになってすごく気持ち悪い)
スケッチブックだと、ついちゃんと描こうとしてしまいますね。そうすると、思い付きのスピードに間に合わなくなる。
情報カードは、ある程度厚口な紙質で出来ていてルーズリーフのようにバラなので、外出で必要な枚数を持って出られまして、スケッチブックより重宝してます。
これをこそ「アイディアスケッチ」と言えば、そうなんだろうけれど。
段々ト語リッ振リガ、「ドコカノ文具めーかーノ回シ者」ミタイニナッテキテイルゾ!

アートの右脳論て。

トコロデ最近、「注目ノぶっくまーく」ニナッテイタえんとりーデ『脳ノ右側デ描ケ』トイウノガアリマシタワ。ソウイウたいとるノ本ガアルンデスノ。(『絵を右脳で描く―「描く能力」が劇的に向上 (朝日カルチャーセンター講座シリーズ)』)
ソコデ、「絵ノくりえいてぃびてぃー、表現力ヲ司ル働キ」トイウノト、「言葉ニ依ッテ物事ヲ認識シ捉エル働キ」トイウノガ、アタカモ相対立スルカノヨウニ解説サレテオリ、少々気ニナリマシタノ。
(科学的な事云々はわたしには何とも言う能力が無いので、「右脳左脳の俗説」(http://www.geocities.jp/wakashimu/yota/nou.html)を参照に。今流行りの右脳論左脳論に眉唾。)
「デッサン習い初め」ですとともかく、「対象を、普段言葉で理解して固定観念化して捉えてしまってる感覚」をまず自覚してみよというのは、重要だと思われます。これは、そのためのレッスン法でしたね。
ところが、ある程度絵の腕が上がってからは、例えば「今描いてる部位は鼻梁の側面だから、次は頬の筋肉に沿ってこうなる」というふうに、既に得た経験知や理屈に依って次の展開の予想が立つので、タッチが早く走るようになったりしてきます。こういうのを「勘が働くようになった」状態なのだと思います。インスピレーションも経験値から引出されるものです。
そういう勘が働かないと、ガシガシ勢い良く描き進めることが出来ないという経験も、わたしたちはいつもしてるわけです。
本の方法論については一応、多分普遍性もあって充分に理に適った良い絵のレッスン法になってたと思います。デッサン入門で、「対象を視る仕方」というのを丁寧に教えられていたと思います。
しかし、「アートの(?)認知論としての右脳論(?)」の面からすると、科学的な面のみならず「普遍性があった」とはあまり思えない。
多分、出版に向けた際の、苦肉のキャッチコピー的な「右脳左脳という言葉」だったのかな、と理解するにとどめれば良いかと。
「もしも竹熊健太郎氏だったら」、『天才っ子右脳ちゃん』と『ドジッ子秀才左脳ちゃん』のキャラの掛け合いでデッサン道を登りつめていく風な感じになって、あぁこの右脳論もそうした演出の一種かもなー、とサラっと見るに止めれば充分、と思われます。(← なんかすっごい適当に考えた喩え話)


わたしはアイディア思索段階でも、圧倒的に「言葉」から入る性質です。それは多分、要素から入るボトムアップではなく、トップダウンで練り上げるのが好きだからだろうな、と思うんですけど。


今回の絵にあたっては、最初の決め事というかテーマとして、「ナショナリスティックな」という言葉というか単語が、先ず念頭にありました。それへ、次の3つのモチーフを充てることとなりました。すなわち「千羽鶴」、「(近代の美術で量産されたような)典型的な母子像」、それと、喪装。
「たいとる画ヲ新シク描コウ」ト思イ立ッタ時、丁度、NHKデ写真家ノ木村伊兵衛ノ特集ヲヤッテイタノヲ観マシタノ。木村ノ代表作トナッタ、1959年秋田ノ農村ヲ取材シタコノ一枚ニツイテノえぴそーどガ紹介サレタ時、「次ハ乳ヲヤル母子像トイウノデ、イコウ!」ト思イ立チマシタノ。
あれは良い番組でした。久々にテレビを熱心に見入りましたよ。
そして、木村伊兵衛のこの一枚も良い写真だと思います。わたしの父が昔からカメラを趣味にしていて、家に専門雑誌の購読や写真集がありましたので、この写真も何となく子どもの時から見知っていました。
写ってる女性は、まだ嫁いで来ておそらく2年かそこらという方だったようです。だから家の中にあって「新参者」という感じの、お嫁さんなんですね。
木村は、ここの家族揃って昼食してる時にお邪魔して、数10分間連続して何十枚か撮っていました。
お嫁さんは、皆の食事の後片付けを済ませた後、束の間子どもに乳をやっていたんですが、ところが、向こうから舅が、何か用事を言ってお嫁さんを呼んでいるんですね。でも、子どもが乳首を離さないので、辛うじて顔だけでも精一杯舅に向けていようとして、用事を聞こうとしている様子を撮ったものだったんだそうです。何とも言えない緊張感が彼女の顔に出てますね。今、どんなお婆さんになっておられるか、「この人は今」なんて、写真見る度思ってしまいます。


ともあれ、テーマが狙い定まっていれば、「要素」の方はこのようにして「ヒントになるのが、向こうから勝手にやって来る感じだ」などと改めて思ったりしました。
この写真は好きですが、「子どもを抱いて片乳の母親像」など、基本的にはわたしには到底馴染まない種類の表現パターンです。千羽鶴も同じく。


描いた千羽鶴のモチーフは、実際に自分の手許に置いておくために、一昨年前両親にも協力してもらって一か月がかりで折るはめになったブツです! ところが後でYahoo!オークションでよく出品されてるのを知って、思いっきり力抜けました。折る前、参考写真撮影のために、近所の神社に無理にお願いして、知らない女の子の名前で奉納されていた高校合格祈願の千羽鶴をお借りした事があります。もちろん、受験生当人が折ったのでなく、家族の方が趣味で折って奉納したんだろうと察します。こういう神社なんかの千羽鶴は微笑ましくて愛らしく、美風だと感じるのですが。たまにニュース映像などで反戦にせよ何にせよ、政治的な場面なのに「上手くことが運ぶよう祈ってます」的な象徴のような千羽鶴見ると、正直苛立ちおぼえるものがあります。「犠牲者の冥福を祈るため」というのもどこか勝手に見えて、いずれもあまり好印象はない。
わたしときたら高房みたいな、なんてナイーブな主張を。
カト言ッテ我々ハ、「アンナ千羽鶴燃ヤシチャエ!」ナンテ劣情ニワカニ起コスヨウナ、ガサツナ育チハシテナイゾ!
要するにネガティブに捉えてる対象を選択してるけど、そこで単なる「抵抗の表現」に堕としめても、ベタになるからつまらない。
あと、子供を人形に置き換えてみたところで、
そう言えばヘルムート・ニュートンの1983年の代表作で、人形に乳をやるというナスターシャ・キンスキーのポートレイトがあったな、と後で思い出しました。*4
こういうアイロニー湛えたようなのは、好きですね。



もうお開きのまとめに入りますが、今回のは、「ナショナリスティックな」という概念ていうか単語、それプラス、この日記タイトルに成り行きで掲げてしまった「漂流」――これは物語の一様式としての言葉ですが、この二つの言葉を繋げ合わせて作品練り上げた、と。
こうなると、「(あくまで俗説の言うところの)右脳っぽい何か」を奮ってというよりかは、とにかく言葉で詰めいって発想起こしていくしか無いです。(本読んで、映画見て、ノートして、)
あ、そうそう、もう一個。背景どうしようかと考え、『蠅の女王』の名にちなんで呪術めいた印象にと思い、こうなりました。それへ念頭していたのは、「『地獄の黙示録』のカーツ大佐の棲みかって、どうだったっけかな?」というもの。そこで結局、4年前かに自分でShadeで作った建築模型を転用してます。





次ノ更新マデ、マタ間ガ開キソウデスノ。シカモ、ソノ時ハ、予約シテイルるいす・ぶにゅえるノDVD-BOX第2巻ガ届ク頃ナノデ、マタ、るいす.ぶにゅえるノねたばれ、ジャナクテ、れびゅーヲ書コウト思イマスノ。
「コンナ必死ニ日記ナンカ書カナクテモ、モウイイヤ」ッテスレバ、気楽ニ更新スルヨウニナレルノニネ。
駄目ですね。そういう肩の力を抜いて日記を書くという行いが、どうしても出来ない性分なのです。(別に「他所の肩の力抜いて書かれた日記が嫌い」とか言うものでは、ありません)
ブニュエル勝手に自分専用になったつもりなんじゃねーの!?」とバックラッシュされそうなくらい、次回もまた必死になって映画のレビュー書いてみようかと思います。


ソレデハ、マタ。左様ナラ〜。

*1:7/2 古地図っぽさが出てないので、パープルの背景に茶系を注してみた。 あと、シーツが画面では暗く見え過ぎてたので、明度をところどころ上げてみた。Photoshopのタイトルロゴも、位置と色を変えた。あと、肌に使ったトーンの網点は、細か過ぎてつぶれちゃってる。もう少し点の大きいのを使用すれば良かったな。これではデジタルで塗ったのと、変わりなくなってしまった。ウェブ掲載意識した、網点の大小の度合いのさじ加減って、経験積まないと難しいようだ。

*2: たまたま見た『花椿』の記事からメモしたもの。フランスの小説『Toscane』という本の表装丁がアルチンボルドの絵で、作家フランソワ・シモンという人の写真が粗くモザイク処理(「ドット処理」と書いてしまってるが)して載せられていたのを見て、その部分が「お?」と目を引いた。本の内容も記事も、アルチンボルドのことではなく、美食についてのことだった。読んでないので未確認だけど、アルチンボルドの表紙採用は装丁デザイナーのアレンジで小説には出てないんじゃないかなと思われ。(わー違ってたらごめん)一旦衆目に晒して言葉そのものを冷静に眺めると、メモった時より「そんなに凄い発見か?」という気がしないでもない。いや、装丁でアルチンボルドとモザイク写真並べるアイディアが、なんか良かったんだと思う。

*3:画像は、昭和54年の『アサヒカメラ』の増刊号の木村伊兵衛特集から。ここで、写真タイトルは特に明示されていない。

*4:調べると、1983年『PLAY BOY』誌の為の撮り下しだったみたい。多分5月号のよう。