蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

『パプリカ』レビュー ―<二つのギャップ>:妄想の言葉と絵、あっちゃんと時田君





先ずは今回の声優・林原めぐみさんを讃えたい。
パプリカ/あっちゃんが林原さんで、本当に良かった、思うよ。
今の日本では、ドラマの俳優よりも声優に、達者な役者さんが多いのかもしれない。
アニメーション映画でも、声の演技の訓練出来てない有名タレントでキャスティングしてしまう傾向があるけれど、そうすることによって一体どれくらい増しで集客見込めるからなのか、僕はいつも首を傾げてしまう。
アニメーションでは映像のみならず声の演技だけでも充分鑑賞にあたうようなキャスティングを、きちんとして欲しいと僕は願ってる。

妄想による言葉の与える「自由自在」な印象と、それを具現化した絵とのギャップは、避けられない

僕のポリシーとして、星いくつでした、何点でした、と点出して済ますのが嫌い。それと、僕にとっては、感想とは、ネタバレの上で書く・読むのがもう当然。本編観る前、であったとしても。「ネタバレ」なんて、作品中の多くの要素のほんの一部分というに過ぎないんだもの。
ちなみに筒井康隆の『パプリカ』は、学生の時に読んでました。





「言語新作」、ていう現象があるのね、統合失調症に現れる、不思議な言語活動なの。
映画の中で語られた言語新作の台詞を、残念ながら正確には覚えてないので、観た記憶を基に僕の創作で、参考例に挙げますね。

電子レンジの絶対領域をモアイ像へと解凍した鳥居の大躍進によって、これを小学三年生革命の始まりだと知るこいのぼり至上主義者たちは、呪われた文法の誤りを犯して、カエルの五人囃子と交替するだろう!

僕の即興ですが、こうゆう感じ。
特定の相手に対する喋りというより、不特定多数に向けて言うような語り口になるのも、一つの特徴らしい。それが預言者のように、彼等を神秘的に見せる。
言語新作と言えば、ジャック・ラカンルイス・キャロルとも言いたいところだけど、これは資料持ってないの。
ヤン・シュヴァンクマイエルの、まあ見事な、コマ撮り実写アニメ『ジャバウォッキー』も、ルイス・キャロルの言語新作に基づいた詩をテーマとした映画やった。


さて、僕の手許の、精神医の論文によれば、

主体と<現実界>の本来不可能な結合が実現されてしまっている*1 

という状態、と説明されてる。
僕の要約を加えながら、もう少し引用してみるよ。(括弧内がYOWによる要約や補足の分)

加藤敏『分裂病と言語』より(『imago』1992年8月臨時増刊掲載) p.264


(言語新作に当面する患者とそうでない人の)この両者の違いは、笑いを尺度にすると一層はっきりする。(そうでない人の場合、言い間違いや機智による言葉に対する笑いがあり、)この笑いは、言葉が自分の知らないところで自己運動することについての驚きをもった承認、及びその引き受けを示す笑いである。そこでその人は言葉の意味をいちいち深刻に詮索することもなく、この言葉への自己委任ゆえに、「幸福なる不確信」の状態が可能になる。
これにひきかえ、言語新作に当面する患者は笑いの可能性を剥奪されている。「排除されたシニフィアンの幻覚的回帰」(註:「主体と<現実界>の本来なら不可能な結合が実現されてしまった」状態)のため、患者は絶対的確信の側に追いやられている。
[a-1]
(言語新作に当面する患者の)逸脱的ディスクール(:言説)は、たとえそのエクリチュール型であろうと、
<中略>
――巨視的にみれば現実界への裂孔の意味への還元の傾きをどこかしらでもつ。(つまり、支離滅裂な羅列でありつつも)
一方、現実界の裂孔を想像的な要素で全面的にふさごうとする妄想型(※)の試みは成功せず、現実界の裂孔が露呈したままになり、いかんともしがたい未知性がつきまとうのが常である。
[a]


少なからず詩人や芸術家は現実界の裂孔に魅せられる。
<中略>
そこで当然ながら、精神病者と詩人や芸術家との比較が問題になる。
この問題を考えるにあたり、ほんとうは、「現実界の裂孔のありようと表れ方の違い(
[B]
)」を明確にする必要があるはずだが、とりあえずこれを不問に付すとすると、両者の違いは、詩人や芸術家では、現実界の裂孔を個人的な単なる私的意味へと還元することなく、現実界の裂孔の縁どりに成功することを求められる。


(※):ここで「〜〜する妄想型」とは、妄想への想像、イマジネーションの働かせの営みのことと理解すべし

パプリカ・あっちゃんにとっての「夢治療」も、クライアントの妄想のめくるめく魅惑に惹かれつつも、それをおのれの想像力によって「物語の紡ぎ直し」であってはならないと抑制を働かせるだろうし、
あるいは「アートにおけるリアリティ」だって “ラカン的には” 本来、そう。大概のアーティストは否定するだろうけど、シュルレアリストマルセル・デュシャンマグリットならば、肯定しただろう。


「夢」のイメージ化というと、ディズニーの『ファンタジア』とか『美女と野獣』とか、――僕はああいうの途中で飽きてくるから最後まで観たことないんだけど――お茶碗やおもちゃがヨチヨチ歩き出して踊ったり歌ったりするようなのを思い起こされたりする。そういう演出を仮に「アニメーション・アニメーションとした」と形容してみる。(「カトゥーン・カトゥーンしてる」とするのがええのかどうか)
『パプリカ』で、嶋局長らの言語新作の「詩文」に対置した、当面した脳内パレードの有り様の絵とが、一見一致していて且つギャップ感をもたらすのは、
言語新作に当面したクライアント以外の者には、「主体(:当人)と<現実界>の結合」は実現されることが無いから(クライアントのような「絶対的確信の側」にないから:

[a-1]
)、「アニメーション・アニメーションしてる場面」が、実際に僕らが束の間体験する「(
[B]
現実界の裂孔のありようと違う、“あらわれ方”」に、必ずしも能わないから。でもおそらく、クライアントの側ではそのギャップはないの。僕らの側に認知の溝があるの。


僕がアニメ作品でまず思い浮かべる、「現実界の裂孔のあらわれ方」の示し方の、“最も参照にしやすい”名場面は、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の11話『亜成虫の森で』の一番最後のところ。
トグサが、あるサナトリウムにハッキング事件を追う潜入捜査に行って、アオイ君という少年と接触した事を報告すんの。そこで、トグサに「美少年・アオイ君」のモンタージュを描かせてみると、堂々と笑い男のマークを描いて示してしまった、というもの…。

S.A.Cの話の説明は、ここではもう省略します。S.A.C観たことない人には、あらまあ何のことだか分らん「参照例」になってしもうたね。御覧になるなら1話から借りて観て下さい。
現実界の裂孔のあらわれ方」は、表そうとしても絶妙な感じで「鳩が豆鉄砲くらった具合」で、体感されるものなの。ヨチヨチ歩き「ファンタジック」のもたらす心地良さとは違う体感なんです。


『パプリカ』の話に戻るよ。冒頭のサーカスや、オープニングのパプリカの「夜の散歩」、粉川警部の映画の思い出の夢等の場面は、「詩文」の言葉と直接対置してないので、言語新作のパレードの時ほど強い「ギャップ」は抱かれない。
映画の後半、妄想パレードを脳内から外の現実(≠現実界)に出した途端、パレードを構成する要素(人形、鳥居、冷蔵庫、etc.)は前半のとあまり変わりないのに、前半の時よりずっと「印象のギャップ」は弱まった感じした。なぜだろう。
それは、他のたくさんの人と「パレードの体験」が共有されるものになったことで、「分析される対象」でなくなったから、だと僕は思う。
クライアント個人の脳内で体感されてる間は、パプリカ・あっちゃんにとっても、「分析をひきだす」パレード足り得るの。




あっちゃんが時田君に惚れてたという展開に、いちゃもんつけてはならない

ラカンが、セミナールで述べた喩えでこういうのがあるの。


おもちゃのピストルは隠喩で、

パンツのフリルは換喩である。



隠喩と言うんは、「綿菓子のような雲だ」とか「もみじのような手だ」といった連想のこと。「ピストルはおチンチンの象徴である(だから男の子はピストルのおもちゃで遊びたがる)」「ネクタイはおチンチンの象徴である(だから男性のファッションではネクタイの着用をする)」というような低理解によるフロイト説主張も「隠喩的」である。
「換喩」の作用は、ラカンの有名な「シニフィエよりシニフィアン優位の定理」にあたる。だからて「隠喩したら負け」みたいな世間体比較級で捉えるの、不毛でうざいからやめてね。
パンツのフリルと同時に語るのもアレですが、「総理大臣の枠」(シニフィアンに相当)の方が安倍氏や小泉氏(シニフィエに相当)より優位である、というのも同じ理屈。安倍氏や小泉氏は「中身」なんだけど、他と入れ替え可能だから、「総理大臣の枠」の方が優位にあるんだね。
ラカンの喩えで言えば、「パンツのフリル」がシニフィアン、フリルの縁どりで秘め隠された「欲望の究極の目標」がシニフィエ

      • 究極の目標たる「内容」の代わりに「縁」の方が意味作用する、ということと、
      • 更に「縁」が内容よりも「常に先んじて意味作用する」

ということを説明したものです。
「パンツの方が、中身よりアピールする力があるんです」ざっくり言えば、そういう喩え話。


言語新作の例で出した「小学三年生革命」と言うがたやすいのはそれが「優位にあるシニフィアン」だからで、
それを絵で具現化して見せるのは「シニフィエ」で、難しい。
あるいは、十人十色の「小学三年生革命のイメージ」が描かれることになる。


更には、マグリットの作品で、『これはパイプではない』という絵があるね。
枠の方で「パイプではない」と否定の宣言がされただけで、中身はいくらパイプの絵でも所在亡くしてしまうこととなる。中身の方が、劣勢にあるからだ。この優勢劣勢の関係は逆転できない。もしくは、十人十色ということになって、状況が一つに確定されえない。



「あっちゃんみたいなお姉さんが時田君みたいな人に惚れるなんて、あり得るか」を問う人は、つきあってる相手に対しても不誠実な人だろう――これが見出しタイトルの解。
あっちゃんが時田君に惚れた理由は、時田君が「太ってて食べっぷりが良い」からでも「少年の心を持ち続ける憎くて可愛いアンチクショウな天才」だからでもなくて、
「あっちゃんが惚れる人の枠」に、時田君がポッ、て、入ることになったから。入ってる中身より枠優位の定理。
これが「ラカン恋愛論」の正しい理解の順序になります。


究極には、あっちゃんに惚れられる事も、僕らが日本人なのも、「ただの偶然」だね。その「偶然の有り様」をひたすら偶然として受け入れ耐えなければ、『美しい国』だから国を愛する態度、○○だから彼を愛するというような、不誠実に陥る。汝、愛国の志あるなら、あっちゃんが時田君を愛したように愛せよ。


この「愛の倫理」は、否定神学が示す命題でもあります。

*1:加藤敏『分裂病と言語』より (『imago』1992年8月臨時増刊号掲載)