蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

チャーチルのパラドックス「民主主義は最悪の政体である」を、図説&解読(上)-法の支配 vs 民主「主義」


以下、選挙前に、代議制や議会制についての話と思っていただければ。

〜これは、「法の支配って何?」シリーズからのつづきものです。〜



民主主義という政体がはらむ堕落の可能性について、ウィンストン・チャーチルの有名な言葉がある。いわく、

たしかに民主主義は
あらゆるシステムの内で最悪である(:B集合)と。
そこで問題なのは、
他のどのシステムも民主主義以上ではない(:A集合)
ということである。
(1947年11月11日の下院演説で。英語文はこちら記載⇒ *1 図はYOWによる)


B集合は、A集合に含まれる「全体」。ここで「最悪となった」とは、民主主義がB集合における他のシステムと比べると機能していない、未熟だ、ということ。加えて、A集合の歴史上試されてきたバリエーション群の中で眺めれば、民主主義よりマシなのは今まで無かった、というわけだ。*2
これが、なぜパラドックスと言われるかは、こうである。

  1. 「A集合で、それ以上のものが無かった」事実から、「最良である」との結論を導いてはならない。
  2. この命題を最上級で定式化したとたん、民主主義もやがて「A集合においても最悪」となるだろう。
  3. かつ、そんな「最悪なもの」に懸けろ。*3



今回は、この1.について説明してみよう。(次回2.の説明に移る)

民主主義∉代議制、議会制、立憲性。奴隷制∈古代直接民主制。

そもそも民主主義とは「平等」のイデオロギーとしては、面白いことに、宗教革命でのキリスト教原理主義の熱狂ルターカルヴァン、)とそれによる軍隊の思想クロムウェル、水平派)として、ヨーロッパ史上に生まれ出ている。(朝鮮民主主義人民共和国とは、そんな創世記を今に体現してるかのようだな)
日本の学校教育では民主制について、議会制、代議制(による多数決)、立憲主義によって、教える。しかし、それは「要素(の束)」である。対し、東大で政治思想史教えていた福田歓一氏は、それぞれ民主制に先行してあった制度であり、「民主制としての要素」以前からヨーロッパでは封建制寡頭政治のものであって、民主主義固有のものではない、と論じた。そうした「要素の束」に還元して民主主義を解してはならない。*4
それでは、福田氏による「そもそも論」で、ヨーロッパの中世封建世界について、簡単に見ていってみる。

【→右図参照:権力/権威モデル】
(数年前NHK「その時歴史は動いた」的な番組の図解参考に制作*5
図で、緑色の樹みたいなのが「権力」、紫色の透明な傘みたいなのが「権威」を表してる。
中世でなくても一般に、「権力」はpower方向に伸びても、effect(影響力)としては広がりにくい。対して「権威」というのは、effectは広がるが、power方向に伸びにくい特質がある。


 〜〜権力について〜〜
「権力者」国王や貴族たちは各々自前で軍事力を持っているが、「パワー」による守備範囲は、物理的に限られているから、影響及ぼせる域は存外に狭い。(中世以後は、国家が王朝の私有財産化し官軍が組織されることで形成が変わっていく)
これを、やくざをイメージしてみたら、我々には分かりやすかろう。(右図、YOW作)封建貴族とは、自前の軍事力を持つ軍閥のようなもの。領主の中から「世話役」としての大親分(国王)が出てくる。各領主は農奴から税(シノギ)を得て、国王も直轄領の農奴から賄いを吸い上げてる。そんな中世の「国」というのは、

  1. 「王国」といっても、「国土」という感覚が無い。国境もわりとアバウト。
  2. 「国民」という観念もない。国民観念は、平民階層のブルジョアジー台頭と国家主権論により、ナショナリズムが発生するようになってから。
    1. 大澤真幸『ナショナリズムの由来』p.106〜107より引用(太字まま):『たとえば、グリーンフェルドは、十六世紀のイングランドに、ナショナリズムの最も古い形態が認められると論じている[1992]。ゴースキは、十五世紀〜十六世紀のオランダやイギリスには、ナショナリズムがすでに発生しており、さらに、その起源は、中世にまで遡りうると論じている[2000]。あるいはマークスによれば、ナショナリズムの起源は、十六世紀の宗教戦争にある。そこに見られる宗教的な不寛容こそはナショナリズムの予兆だというのである[2003]。――ネーションの成立期はいつか、という問いに関しては、二段階を設定して理解すべきだ。第一に、絶対旺盛の段階にネーションの「種」が蒔かれる。次いで十八世紀末から十九世紀にかけて、ヨーロッパで、ネーションが本格的に実現する。前者をナショナリズムとネーションの「前駆的な実現」、後者を「本格的な実現」と呼んでおく。――ナショナリズムの起点を、前駆的な実現の段階に置くか、本格的な実現の段階に置くかの相違だったのである。二つの議論は共存することができるのだ。』
  3. そんな各領地(シマ)を束ね一つの王国にしてるのは、王、領主間での個人的な「契約関係」や慣習法(国王の権限を縛る法)だけ。

大親分の国王が、領主から契約外の上納金(税)が更に欲しくなった時、その合意調達を得るために、各階層(貴族〜平民の名士の代表)に集まってお願いしたのが、議会制 & 代議制の始まり。
「立憲主義」や憲法のルーツは、上納金なんかは予め定額にして契約交わしておこう、というよな「既得権を文書化することを強要して獲得した*6」ものだった。
しかも、王さまの無心の都合で議会召集したのに、想定外で、貴族らが「私的所有の自然権」という「特権」を主張するようになった。それで、この議会制によって「抵抗権が機構化されたもの」になった、と福田氏は教える。*7
ここで、重要ポイントは、いずれも特権階級の「特権(の自然権)」のために出てきたシステムだということ。(注意! 特権≠人権)
「主権」は、古代ローマの自由市民にすでにあった。「家父長は自由裁量で妻子を無条件に殺しても良い(=私有財産の使用収益処分の権利!)」として。


 〜〜権威について〜〜
「権力」に対して、「権威」を代表してるのは中世では教会と法皇庁。つまり宗教勢力。武装がないからpowerは低いが、影響力及ぼせる守備範囲が広大である。世俗に向けて、後世もしばしば権力への服従を正当化する役を演じてきた。やがて、ペストで農奴が爆発的に死んで貴族のシノギも減り、宗教革命でカトリック権威が解体された頃「主権国家論」が現れ、王朝が権威をも兼ねるようになる。(:王権神授説、国家主権論など)

詰めた小指と、人間関係とが、本当に等価で良いの?(慣習をめぐる疑問)

さて、近代以前から、多数決や代議制というのはただの不平等じゃはないか、と考えられてきた。そこで平等な政治的決議というのは、次の2パターンとなる。

(一)、全員参加(全員一致) or (二)、くじびき抽選で無差別にやる

古代〜中世封建世界は、「私的な秩序の集積」であるので、こうした共同体での意思決定方法については、全員一致以外にはないようだ。*8 
共同体での「私的な秩序の集積で公的秩序へ」
だからこそ、問題を判断する原理としてまず働くのが伝統主義という、ひたすら「昔からこうだった」を参照する慣習法となる。で、わりと最近までそうだったが、
公的秩序というのが直接の人間関係ので「人格的に」成り立ってる限り、「擬制」というフィクション観念が社会的に働きにくい。
というところがポイント。(↑次回のテーマ)教師なら、試験に出したいくらい大事。

          • 福田歓一『政治学史』p.375より:「多数決は、多数派が力が強いから少数は仕方なく多数の意見を受け入れるという論理の上に成り立っているのではない。多数が全体を代表しているという一つの擬制である。これは、やはり擬制が人間の行動の動機となる世界でないと、受け入れられない」

古代や封建社会でも、政治的意思決定に関われる特権層の者たちは、戦士だったり、私有軍隊持ってたりした。そんな「力」を背景にした「直接の政治」ということは、

「もしやったら、こっちもやり返すからな!」
という、「同害報復するつもり」な意志を常に、表明させ続けなくてはならない。



  • 宮台真司氏『連載第二一回:法システムとは何か?(下) 』より引用:『威嚇による紛争回避が法の機能だと見る通念もありますが、間違いです。なぜなら「人を殺してはいけない」というルールを確立した社会を我々は知らないからです。代わりにあるのは、「仲間を殺すな」と「仲間のために人を殺せ」というルールです。 後述する通り、原初的社会では血讐(同害報復)が権利でなく義務です。「殺してはいけない」がルールであるためには「やりたい放題は許さない」との意思が表明される必要があります。原初的社会では、侵害を受けた当事者が意思を表明することが期待されます。』
  • アガンベン『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』p.42より引用:『(同害報復法の形をとるのは、広義の)暴力を本源的な法的事実として、法的秩序へと包含することである。』



ゆえに民主制は本来武装民のものである必要がある、ゆえにアメリカでは自由市民は銃武装するものなのである、というスパイラル。
自然状態も自然な秩序も後付けされた伝説、「ありえない段階」。
やくざの抗争で言うと、その抗争やナマの人間関係が、例えば「小指」という要素に真には還元しきれない。ナマの関係とルールは、等価ではない。しかしそれで手を打ってしまうのが再帰化。

          • 『再帰化とは「潜在性の空洞化を選択で埋め合わせできるフリをすること」。他方、再帰化の営みこそが潜在性を空洞化する(面もある)。だから再帰性は、近代の本質をなすマッチポンプなのです。 』宮台真司氏『自由とは何か?』より引用
          • 『(貨幣とは)まさに対人関係の形代(かたしろ:トークン)に過ぎないのではなく、制度が「具体的個人」間の直接の操作に還元されないからこそ、象徴の制度を物質化するものとして貨幣は登場するのである。(ジジェク『幻想の感染』p.56より)』

このある種の「形式主義」を止めようとすると、更に硬直した形式主義の状態を作ってしまうんだから、人間というのは厄介なものだ。(⇒ex.ナチスのワイマール憲法無視とか。または、「反社会」の集団が、内部では序列や掟に厳しいこととか。)
そして「法の支配」もまた、手順の問題なのだから、形式そのものである。

丸山眞男『現代政治の思想と行動』の「肉体文学から肉体政治まで」より。p.387-388  
人間がつくるものはつくられるや否やそれは「既につくられたもの」として人間の環境の中に編入されていく。<中略>慣習法などは最初にさかのぼればおそらく「フィクション」として出発したのだろうが、自然的実在に最も接近して、フィクションとしての意味を失ったものといえるだろう。<中略>
もし制度なり機構なりがその仕えるべき目的に照らして絶えず再吟味されることがなかったならば、それはいわば凝固し、習俗化してしまうわけだ。
フィクションの意味を信ずる精神というのは、一旦つくられたフィクションを絶対化する精神とはまさに逆で、むしろ本来フィクションの自己目的化を絶えず防止し、これを相対化することだ

代表制について補足

スラヴォイ・ジジェク『[rakuten:book:11298475:title]』(p.369〜)によれば、民主制の代議制とは、「諸利害・諸見解」など既存の集合を適切に再呈示する、代議をするわけでは、決してない、としている。これら諸利害、諸見解は、代位表象(≒民主的代表)を介してのみ、構成される。利害を民主的に表現することとは、ゆえにつねに(最小限において)行為遂行的である。人々は、その民主的代表を介して、諸利害諸見解が何であるのかを、確立する。

民主主義が「合衆国の現実と同じもの」とされることの、病理

<今回のムスビ>
現代でも、良くも悪くも、民主制という以上にイデオロギー的であると、思い知らなければならない。
アメリカの話だが、福田氏によれば、ヨーロッパのそれと違って、抽象的な理論を編み出す仕事を欠いた民主「主義」である、という。*9 新大陸ではヨーロッパの強い身分制度の遺制から真正面から闘う契機もないので、「容易には動かしがたい現実と対立する」理想としての観念から構築したというより、民主主義が「与えられた事実」であるとする性格の方が強い。それゆえに、その恵まれた諸条件から、制度化が、最も早くから実施されてもきた。
そうして、「合衆国の現実」という生活様式のようになったことで、超越的・形而上的原理としての性格付け段階を経ることがなかったのが、却って、極端にはマッカーシズムのようなさらに稚拙な「超越性」へと凝固する。
狂熱のイデオロギー闘争は経ずに制度化された「民主制」要素の束により、生活様式として完全に還元された民主主義が、よりイデオロギッシュな性格を持つ、という、人間のややこしさを推して知るべし。
日本の場合さらにややこしくて、明治に、民主制が西欧の既製品である上に、「ほーぃ天皇からの所与ですYO!」と上から降ってきた、という、どこまでも「所与物」としての近代なのでした。



それでは次に、「チャーチルのパラドックス」の2つ目、「この命題を最上級で定式化したとたん、民主主義もやがて最悪となるだろう」について。
そのために、マルクス(を解説するジジェク氏)による天才的な「イデオロギー信仰分析」と、権威であった宗教の役割と問題を書きます。(2は、1の説明としても重なってくる)



次回予告カット⇒ 

*1:'Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. (←A集合でのこと) No one pretends that democracy is perfect or all-wise.(B集合でのこと→)Indeed, it has been said that democracy is the worst form of Government except all those others that have been tried from time to time.'

*2:古代ギリシャ等の「直接民主制」というのは、男子の自由市民のみであり、あまたの奴隷と女性による労働と生活の担えあ辰討海宗?椎修弊?里世辰拭6ζ餌亮腟舛蓮??呂両?気気砲茲辰討浪弔世隼廚錣譟

*3:パラドックスについて:ジジェク斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』p.62-63を参照した。

*4:哲学でいう「シニフィアンシニフィエ」からすれば、しごく当然な話である。「名前は、指示された対象の中身の束についての記述に置き換えられない」。そこで、福田氏が使ってなかった「要素の束」といった言葉で、自分解釈で語ることにした。福田氏はほとんど、「〜〜すべきだ」という案内する強調の言い方は本でしていない。

*5:織田信長 vs 足利将軍家の攻防の特集で見た「権力/権威」モデルの記憶を手がかりに、Shadeで作ってみたのら。

*6:

政治学史

政治学史

p.144-149より。マグナカルタのこと。

*7:福田歓一著『近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)』p.144-149

*8:福田歓一『政治学史』p123より参照した。ちなみに、今でも全一致型は、ローマ法王選出のコンクラーベがある。抽選については、現代でも陪審員制度、裁判員制度の代表選出などが挙げられる。

*9:

近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)

近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)

p.51-58より。要約で