蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

不安の規制

 遅まきな報告ですが、ガンの手術を受け、退院してきました。はてなスターはてブエントリ、ありがとうございました。
 内臓への転移は無く、ガンの浸潤範囲が筋肉や骨に及んでなかったので、今後も作品制作においても日常でも、活動になんら制限は無いです。(この夏の間はずっと、傷周辺が若干痛むだろうけど。)そして、抗ガン剤の必要は無いそう。放射線治療はやらないといけない。再発率は2パーセントあるらしい。



 自分で触知した時は、その大きさから「こんなの早期じゃないだろ!?」とかなり動揺したけれど、手術前に俗に言う「早期」の範囲という診断を受けた。医療保険制度とか受けられない人で「早期治療」が無いようなら、早期って、医学的な区分というよりも制度や経済的区分という気がするが…)
 自分の罹った癌の種類については、明記はしないことにする。ココが「病気についての情報」みたいに検索上位に上がるのは、申し訳ないから。


 同じガンのグループ内でも、軽く済んだガンの人の集団というのは他のガン患者から評判が悪いんだそうと、個人ブログでちらっと見た。存外にすぐ娑婆に出られたから強気になるんだろう、「勝利宣言」とか「ガン友も出来た。ガンを得てなんだか良かったです」的な発言が目立つからだそうだ。そうしたガン友芸能人たちによる「ガンは治る病気。ガン=死のイメージはもう古い!」とした「ガン撲滅キャンペーン」にしても、深刻な状況に立てば何のリアリティもないのはすぐ分かりそうなもんだけど…。こういうのって、もっぱら「不安の規制」がキャンペーンの目的なんだろうな、リアリティは関係なく。
 亡くなった叔母も生前、すでに余命の宣告がされてるのに「望みを捨てるな」「もっと明るく振る舞えばいい」など、無駄に「死以外の選択肢が用意されてる」かのごとくな励ましされて、それにぼんやり応対していたのを、わたしは端で見ていた。
 わたしの時も同じように言われてきたが、検査待ちでどれだけ癌が進行してるものか判然でない日数が3週間、「人前では明るくしてろ、考え過ぎだ」「何があっても望みを持て」など色々言われたが、ここでたとえ祈ろうが良い子にしてみせようが、癌の現実は「既に経過した過去」の事実として“決まっている”わけで。
 厳粛な現実である死。その現実回避しての生の謳歌というのが、ただの堕落に感じられる。
 「病める時も健やかなる時も、相手を愛し敬え」という、結婚式ではお馴染みの言葉がある。親しい人が、病んでしまうと未知の他人同然に変わり果てるかもしれないのだ、それはあなたが想像してみるだけで本気では想定する気はなかった変化である、「それでも変わらぬ愛を誓いますか」*1
 腫瘍発見の日に鏡で見た自分の姿とほぼ同じ、体重にも変化なく外見上以前と以後で大差はない。でもあの時には、もうじきこのままの姿でいられなくなるんだというビジョンへ、自分の思考はまっしぐらに向かってしまった。出撃前の兵隊などはあんな心持ちになるんだろか、といつも考える。まだ唇がすーっと凍るように冷たくなる感覚が蘇る。
 思想から学んできたことのひとつが「存在論に依拠するな」だった。*2
だから、もし死ぬことになってたにしたって、運命論や、物語の兵隊や特攻隊員みたく自己犠牲の魅力に懸けるわけにはいかないし、サバイバーとして生の謳歌や「命の大切さ」讃えるのも、「都合がいい解釈」というだけでやはり違うってことになる。

*1:はてブエントリでのとある記事と種々の反応:http://b.hatena.ne.jp/entry/http://cyborg.relove.org/thought/islam/yashkur.html

*2:存在論に依拠しない」には、存在論をよく知らなければならない。まるで存在論者のように。