蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

天皇陵の近代「超越性」のランドスケープ 〜みささぎの森での「めまいズーム」効果、借景式整備、近代の陵墓美観政策について




 今回は伝応神天皇陵(誉田山古墳)を題材に、近代からのこの指定天皇陵の「美観の設計」について考えてみた。そこから、美観・景観における、「自然」に対する人為についても少し調べていくことになった。
 さらに「陵墓の近代史」となると、幕末にあった「文久の修陵」事業のこと、またそれに影響与えた水戸の「尊皇派」についても知っていくことになるのだが、存外にこれらは、著作でもWEBでも取り上げが少ないようなので、ここで最後の章にて書き出しておくことにした。 
 記事は以下の4つのパートに分けて書いた。

    【1】 
伝応神天皇陵の概観と紹介
    【2】 
超越性のランドスケープ ―めまいズーム(ドリー・ズーム)が生じる条件―
    【3】 
超越性のランドスケープ ―借景式の手法―
    【4】 
みささぎの森の近代化へ ―幕末「文久の修陵」、明治以降の「美観」―

                • 文久年間以前の様子
                • 文久修陵でかかった費用について
                • 近代からの森林景観の好みの偏向と改変
                • 拝所の造成の経緯について
                • 政治側の「超越性利用」のための江戸期修陵事業



 文久修陵については参考にした本は、『「陵墓」からみた日本史』、『幕末・明治期の陵墓』、『文久山陵図』(慶応3年に戸田藩から朝廷と幕府に献上された図絵集による報告書)、『羽曳野市史』第二巻、第五巻、第六巻。

【1】 伝応神天皇陵の概観と紹介

 伝応神陵・誉田山古墳は、墳墓としての体積が日本一、外堀を含めた全長は550mに達する。この周辺地域「古市古墳群」は、他にも全長200m以上級の前方後円墳を擁する、日本有数の古墳群になっている。周りは郊外のベッドタウンで、ぽっかりジャングル島のように古墳が点在している。
 最近、堺市主導・大阪府共同で伝仁徳天皇陵を擁する百舌鳥古墳群と共に、ここの古墳群も世界遺産への登録を目指そうとする計画が持ち上がっている。(⇒堺市のPRページ) わたしの感想では正直、多分考古学的な理由から(近代での治定に確証がない→【4】にて説明)と、何よりも景観保全の不徹底さ(マンション建設問題等)とで、登録実現はないだろう、と思ってる。(というか世界遺産にならなくても別に良いと思う…)ちなみに宮内庁はこの件ではノータッチで、賛成も反対もないのだそうだ。
 考古学では、応神に関しては、実在を疑う向きと、応神が旧王朝から新王朝(今の王朝の流れ)に替わった初代の王だった(つまり神武ではなく応神が初代)とする向きとか、色々とあるようだ。(検索ワード:「欠史八代天皇 欠史十代天皇」参照のこと)ここでは、考古学の問題は取り扱わないものとする。



 記事を書いた動機の一つに、応神の森が、単純に大変美しい森だから、というのがある。――日帰りハイキングに誘われて出かけてみても、「景観的」にはイマイチだった事がままある。
 照葉常緑樹が優勢なのだが種々が混合して植生しており見た目に賑やかで、いつまでも見飽きない。落葉樹よりも常緑樹が優先して植生するのは、「神聖だから間伐という人間干渉はやらないのだ」といわれている「鎮守の森」に共通の特徴なんだそうだが、応神陵の景観が重視されていない場所へ回ると、堀周壕の林に丸太が積み上げられているポイントがあって、維持管理から「人間干渉」はやはりあると分かる。鎮守の森というのを調べ出してみると、「となりのトトロ」観も変わるような話が見えくることに。電動工具の音が響く日もあったなぁという事を、意識的に記憶に留めていなければ、この美観はひたすら「神話的なもの」に映るだろう。

 実は、明治政府になると、「修陵事業」では必ずしも「古制」にのっとらなくてもよいとして、史実よりもむしろ美観が尊重された。「御陵の森」も、数百年来の原生林なのではなく、明治期の、「風致策」による常緑樹を好んだ植樹が行われていたものによるのだという。「常緑樹」であった理由は、管理のし易さからだろうとされている。そんな事情を知る前はわたしは、「拝所」から森を眺めれば「自分には立ち入る事は(法的に)叶わないのに、鳥や虫やタヌキといった無垢なものたちだけが往き来をしているなあ」とか、墳丘とわたしとの間には彼岸と此岸、あの世とこの世の隔たりがあるなあ、とかいった感傷したものだ。*1 てっきりこの森は、原始林に準じる「原生林」だと思ってきたが、実際はここ100何年かで完成された美観である事が分かった。それはまた【4】で後述する。

      • といっても、「改めて森を伐採して造成当時の姿に戻そう」などという、大阪府高槻市みたいな改修*2は、古墳に関してなら、わたしも絶対に今さらそんなのは望まない。(古墳以外の他の史跡については、また考え方が変わるが) 
      •  また、人間の勝手な思い込みに過ぎないのだから、美意識とか審美価値など、自然や景観に関わるのにおいては「排除」しろ、ということが、果たして可能なのかどうか。不可能だと思う。「有用かどうか」の道具的関わりの仕方を断念したところに審美観というのが現れるので、それを排除すれば「社会的に有用かどうか」という人間中心さが、かえって浮上していくだけではないかと思う。




 上二つの写真の場所は「拝所」と言う。応神陵の現在の拝所は、お堀の堤の上に位置する。きれいに整備されてるのだが、公園のようにベンチや日除けが無いせいか、古代史ファンのハイキングツアーか信仰による参拝以外では、人の訪れをほとんど見かけない。だから、次のパートで挙げているここの「めまい効果」に気付いている人も、あまり居ないのかもしれない。その地面には白砂利が敷かれ、清潔に掃かれている。ちなみに寺院神社の「参道」というのはよく「彼岸へと参拝者を導く『道行き』なのだ」と言われる。古市古墳群の中で、森林の美観制御でも参道・拝所の造園整備につけても、応神は幕末の尊皇派から、今の宮内庁に至るまで、特に重視されているように見える。(【4】にて後述)

 他の「天皇陵」の拝所では、すぐそばに民家が建て込んでいたりで、応神と比べて格段に小規模で、参道スペースは無い。⇒某指定天皇陵拝所にて撮影、今もまさに建て売り住宅が、建てられていってる(笑)これが流行りのプロバンス風とかサンタフェ風の建て売りにならば、都築響一の『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』みたいな隠れたキッチュ名所となる期待も持てそう・・・あいや、景観の価値観から言うと、「対象」の周りの視野がこの場合は十分開けてる方が望ましいのだが、景観に関する自治体と宮内庁の連携が、案外あんまり無いのかも。




 応神の参道は、日本庭園風に設えてあり、道なりに松や垣根を廻らされて、生活空間との隔てをしている。道は直線状ではなく緩いカーブを成しており、最初の20数メートルでは樹木の遮りによって前方の様子は隠されている。進むにつれて、森の姿が徐々に視界に入ってきて、街中だという現実感を失わせるようになっている。
 参道とは対照的に拝所は、正面的・無性格・水平線を強調したデザインになっている。花崗岩の石柱数百本による幅40mの柵列と、浅い雛壇とは、本来の用途「立ち入り禁止」という以上の何かを思わせる、「過剰」さがある。これらが背景の山に対し、「近景のフレーミング」をなしている。(後述するが、この近景の単純さ、無性格さが実は借景の手法としての理に適っている事になる)
 白砂利には直線のほうき目がつけられているのだが、いわゆる枯山水の様式をとっている。拝所の幅の中央に、直交にほうき目がつけられてあるのが水路のようで、鳥居の足下を通って後は観察者の想像の中で滝になって堀の底へ落ちていく、という設えになっている。


 遠景にある「森林の美観自体を信仰の対象にすればよい」ということだろう、鳥居は、なにかの形代(かたしろ)のように擬人的な印象がする。近代では、超越性は、もはや「固有の王やその系統を祀る」という具象的中心性は要らないのだ。ベネディクト・アンダーソンがアーリントン国立墓地の「無名戦士の墓」について

 これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。これらの記念碑は、故意にからっぽであるか、あるいはそこにだれがねむっているのかだれも知らない。そしてまさにその故に、これらの碑には、公共的、儀礼的敬意が払われる

と書いたように、一見して対照的な、「現実的には中心の吸引力不十分(欠落)」と存在論的「過剰」とが、心理的にはそれこそ“自然”に合致するという事を改めて示す、鳥居はその形代なのだ。*3

【2】超越性のランドスケープ ―めまいズーム(ドリー・ズーム)が生じる条件―



 ここの拝所参道では、前方の墳丘を注視して歩いてると、「めまいズーム」が起こる。
 「めまいズーム」(ドリー・ズーム、トラック・ズームとも)と呼ばれる映画撮影での特殊効果があるのだが、この場合何によってそう視えるのかという興味が、記事を書く直接の動機でもある。参道を前進して行くと、背景の森の木々がモクモクと入道雲のように、遠近法に逆らって、膨張していくように見えるのだ。(ちなみに他の「天皇陵」では、めまいズーム効果は起きなかった。どうも応神の参道だけの特徴のよう)
 めまいズームとは何かというと、ヒッチコックの映画『めまい [DVD]』で用いられた撮影技法だったのでその名が付いたのだが、簡単に説明すれば、ズームを変えながら、カメラを前後にレール移動させる事で、動かないはずの自然や建造物の背景が迫ってくるような、膨張していくようになる、技法のこと。詳細は注釈スペースにて本からの引用を出しておく。 *4 
 今はすっかりTVドラマでよく見られる手法となった。*5 例えばドラマ『TRICK』で、仲間由紀恵が「お前らがやったことは全てお見通しだ!」と見栄を切る時なんかに使われてた記憶がある。下の映像を見てもらえれば、誰しも見覚えがあるものだと思う。(最初の2つが映画『めまい [DVD]』からの場面)



 次の動画は、わたしが実際に応神天皇陵参道にて撮影したもの。

 普通にビデオ撮っても、めまい効果など現れてない。映画論では「めまいズームとは、主観的感覚を表現するために生み出された技法である」と説明されるが、まさに「(敢えて言えば)主観的」めまい効果が現れるのだ。それは、すでに造園におけるひとつの手法として確立しているものだったりするのか?





右の図は、拝所での観察者(カメラ視点)〜鳥居〜墳丘の距離関係を断面図にて表したものである。拝所に至るまでには、65m(自分の歩幅で測定)の参道を通り抜けるようになっている。




 そしてたった数秒のアニメーションだが、CG模型によって、主観的めまいズームの再現を試みた。

        • 制作ソフトはShade。
        • アニメ制作で、ズーミングとカメラ移動を同時に行う機能というのはついていない。
        • カメラ設定のレンズ設定は、50ミリ(画角46°)。
        • カメラ視点(カメラ位置)を前方に移動させながら、注視点(カメラの首振り)を徐々にわずかに仰いでくよう動かしている。
        • カメラ視点の軌道は水平ではなく、1°ほど登っていくようになってる。(参道のモデリングで、1°傾斜をつけた)参道最後で傾斜の傾きが少し上がっている。
        • 判別しやすいよう、鳥居を赤色にした。実際は白木の木肌。



 模型によって考えた、主観的めまい効果を起こすと思われる条件。

  1. 映画でいう「トラッキング」にあたる、前後の移動が出来るよう、充分な大きさのスペースがあること。(ちなみに他の天皇皇后陵では、この条件を満たすような大きな参道は設えられていない方が一般的みたい)
  2. その参道が大きくカーブを描いていること。最初からすぐに視界に全体像が入らないようになっていること。それによって、視えてきた時に墳丘に注視(眼のピント)がいく。(神武天皇陵の参道は、「カーブ」の条件は、充たしていた。しかし、「コンケイヴ地形」の条件を満たしていないのと、墳丘の高さも面積も小さいために、めまい効果は現れない)
  3. 墳丘が十分大きいこと。墳丘全長425m・後円部高さ36m、高さは海抜なので、現在の木の高さも入れたらもっと高い。
  4. 背景の墳丘と被写体(鳥居)との距離が十分開いている(目測と文献から80m程と推定)。開き具合の加減は、背景の墳丘の大きさとのバランスによる。人間視野の画角の範囲、注視点の仰角の角度からくる印象、環境デザインの分野からこうしたバランスを数値データ化しているところもある(⇒参考:山梨大学の環境デザイン、都市計画の資料・記事・講演アーカイブス『6章 景観*6。蛇足だが、試みに、鳥居のすぐ後方5mと10mの場所に団地を建ててみると、このようになる。
  5. 参道サイドに並んでた植え垣や広葉樹が並んでいるが、拝所近くなると低く刈られてる。これによって前後に移動すると垣の高さと墳丘の頂上との、見た目の高さ関係が変化する。前へ進めば樹に対して「相対的に」墳墓が高く見えるように工夫されている。⇒図参照   
  6. 参道が水平ではなく、鳥居に向かって上るようにわずかに上り坂になっている。CGアニメを実際に作ってみて、気が付いた。カメラを水平移動させても、めまい効果は再現できなかった。
  7. 5.の道の傾斜によって、山の●が(これは樹冠の置き換えなのだが)、鳥居との相対的「高さの位置関係」が、前後のカメラ移動でもあまり、変わらなこと。




 残念ながら造園技術における「めまい効果」を謳ったような用語や資料は、今回は探し当てることができなかった。


 そこで関連性があると考えてる、「借景式(しゃっけいしき)」という日本庭園の技法を挙げてみる。

【3】超越性のランドスケープ ―借景式の手法―



 借景式の代表的なものに、瀬戸内海の景色をそのまま庭園内の構造に大胆に仕立てた安芸の宮島(厳島神社 左図上)、比叡山を遠望として取り入れた京都の円通寺(図まん中)と修学院離宮、桜島を借景にした仙厳園(図下)、大和盆地を借景した慈光院、滋賀の浮御堂もまた琵琶湖を借景したものとして数えられている。自然相手ではないが、当麻寺は天平時代の塔建築を借景にしている。


 このような名園には並ばないが、応神陵もまた借景式の様式をテクニカルに取り入れた、すぐれて「近代の美観」だ。


日本の伝統 (知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)



 1956年に発行された岡本太郎のこの著作で、代表的な禅院の借景式庭園を取り上げている。徹底した「趣味論」のアンチだった太郎らしくも的確な批判が展開されていていて、良い批評だったので、「借景式とは」を説明するのに引用していく。(色文字部分と強調はYOWによる)

 借景式の庭園というきわめて特異な、しかし驚嘆すべき技術は、おのれの小さい場所に箱庭的な模写自然をつくりあげるのではなく、大自然そのままをこちらに引きずり込んでしまうのです。手前のわずかな仕掛けによって遠い大自然が強引に引き寄せられ小さいスペースにはまってしまう。

 近景である庭を「遠望のフレーム」として機能させる。遠望の風景の必要な部分をそのフレーミングによって「切り取り」、風景を庭として認識させてしまう大胆さが要求される。「大自然をこちらに引きずり込んでしまう」事を、庭師の用語では「生け捕る」と言う。
 言わずもがな、「借景式庭園」というのは、周辺環境の流動化に対抗し、自治体で建築規制などで景観確保に乗り出さないと、あっという間に「借景であったことそのもの」が忘却の彼方に追いやられ、必然的に消滅の道をたどる事になる。

京都市眺望景観創生条例が2007年9月からスタート。Googleで「円通寺 借景」と検索すると、条例可決前に書かれた高層マンション建設や道路拡張を嘆くブログでいっぱい。わたしも同じ気持ちだった。

 太郎は、竜安寺石庭について、「卑弱な精神をしたインテリの虚栄」による「そらぞらしい観念の操作におちいらせる、ひねこびた石だ」と、酷評を投げかけているのだが(私も、竜安寺には期待外れした覚えがある)、寛政年間の火災があった以前には、竜安寺もまた借景式庭園だったのではないか、その事が完全に忘却されて今にあるのではないか、と太郎はみている。

 そうした箱庭的な自然模写の日本庭園ではなく、

同上より
 大自然の景観を真っ向から受け入れる。しかもそれを受けとめるために、なにかしなければならないとしたら、小細工はやめて、単純で強靭な手を打つ以外にありません。
同上、p135
 借景式の石組みというのは、それ自体はむしろ無性格でなければならないのです。石組みだけとしてみれば、割りあいに平面的にならべられて、石そのものを最大限度には生かしきっていない。この平面性、無性格が、借景としては逆に、重要な手段になるのです。
 さらに、取り入れるむこうの自然も無性格であるべきです。そういう景色こそ、かえって借景によって生きてくるのです。たとえば富士山のような、それ自体として完成され、見られるような風景を入れたのでは借景庭園としての凄みのある感動をつくり上げることはできません。彼我が無性格であり、ともにそれだけでは見ごたえがない。だが中景の空(くう)の媒介によって双方が本質的に対決し、渾然と新しい次元に統一されるとき、はじめて驚異的な性格・風貌が打ちだされるのです。 <中略>
 だから、(竜安寺石庭のように)手前の石だけを観察して、奇妙に深刻になったり思い上がった納得の仕方をするというのはこっけいです。
p118
 二つの対立的な空間のあいだ(中景)を自然に連続させる森や山つづきなどがあったのではぶちこわしです。

 その「中景の空(くう)の媒介」を確保するためには、借景式を設計する条件には、地形が凸地であるより、凹地・谷状の「コンケイヴ地形」になっている場所が都合が良い、という事が知られている。



 借景式というまことに驚嘆すべき技術をもう一度たしかめてみましょう。
 むこうの「実(じつ)」の自然を取りいれるために、手まえにはまったく人工的で抽象的な、「虚」の世界を構成する。そして手前と無効の間を空(くう)にするか、低い生け垣または土塀をもって一線に区切り、遮断するのです。塀という、もっとも散文的で実用的なものを自然の景観のどまんなかにグッと引きつらぬいて、みごとに断ちわり、かえって芸術的な世界に転化させるのです。驚くべきことです。
 もし素朴に自然を鑑賞するなら、こういう区切りはつけないはずです。 <中略>
 一線に区切った・・・とたんに自然は自然として、人工は人工として、実は実として、虚は虚として、二つの対立極は相互に高度な緊張をおびてはたらきかけ、その間に火花をちらすのです。

 太郎はあくまで「それが芸術の営みであるならば」、融和や自然の賛美ではなく「自然」と「人為」とをガチンコに対立させて、対立させたままに「高次の緊張」を持てという。こういう岡本太郎がわたしは好きだなー。




 ここで応神陵のことにたち戻れば、

  1. みささぎの森と山を整備して、「遠景」に見立てることで、自然自体を「信仰」対象にも仕立てた。
  2. 墳丘の大きさに対し十分に正面幅広くとった拝所の水平線の強調、拝所の石柵や雛壇の無性格・正面的・単純な設えによって、背景の「彼岸」に対する此岸という隔絶感を印象づけている。
  3. 堀による凹状の地形が借景にとって都合の良い「カラの中景」を成し、近景と遠景の性格の対照性を支えている。



 応神の場合、本来の借景式と違うのは、遠景の自然自体が実は人為の巨大な築山である、という点になる。


 ついでに、神武陵も見に行っておいた(右図)。こちらは大型前方後円墳ではないので、拝所は借景式にはなっていない。
 参道の造りが、歩いてて気圧されるほど迫力があって、見事だった。参道というよりも、まるで城壁。巨大建築好きの人にも、ここは見ものかも。道の長さは150〜200mくらいで、大きくカーブさせてある。その左右を各々螺旋状に伸びた高さ20mもの杉木がズラッと居並び、緑の壁になってそびえる。参道の周囲の何万平方メートルが、常葉樹メインにした雑木林で分厚く固められている。「森の城塞」という感じ。これらは昭和15年の紀元二千六百年奉祝事業の時に植樹されたもの。参道を抜けて、拝所まで出てしまうと、迫力が抜けて割合と感動が薄れてしまう。拝所の砂利には、白砂というより黄褐色の砂が敷かれてあって、柵中にある水田の稲や、松の赤い幹との色映りが良くて、色彩的には巧いなと思った。



【4】みささぎの森の近代化へ ―幕末「文久の修陵」、明治以降の「美観」―

  ●文久年間以前の様子
 幕末期から、明治〜昭和にかけて、何度かの陵墓整備事業が行われてきている。幕末の本格的な整備は、文久の改革の一環である「文久の修陵」というものである。(ここの最後のパートで詳細は触れる)
 下図は、文久より60年前の、1801年に刊行された『河内名所図絵』の中にある伝応神陵を描いた図絵である。*7  部分↓

 享和年間当時には、まだ拝所が「後円」部の山の頂上にあった。しかもあまたの鎮守の森・山陵の例にもれず、「神聖な場所」として不可侵だったよりは、地域の村の「生活物資を得る」ため樹木等も活用されていて、中は年貢地として耕作もされていたようだ。
 60年後の文久修陵で、各地の陵墓は整地・「整形」がされていき、応神陵は、拝所と参道が山頂から、現在の堀堤の上に移された。(↓下図『堺県下皇陵図(抄)』より。)*8 (この移動で廃院させられた社もあった) 



 古市古墳群の中でも伝雄略天皇陵になると、さらに大胆な整形工事が幕末から明治10年代にされている。もともと「丸山」と称されて、円墳だったのを、東隣の「平塚山」と称する古墳の「方形」部分を取り込んで、土を盛って整形し、人工的に円墳と方形部分を合体させたのだそうだ。これは、雄略帝のような偉大な大王の陵墓ならば、前方後円墳であるべきだという、史実よりも、明治政府の美意識が優先された結果である。*9


 同古墳群では文久以降、明治12年、明治30年、昭和10年〜15年(紀元二千六百年記念事業)に、墳丘や周壕の整地・造成事業がされている。また昭和40年代以降からか、度々、周壕の整地や柵を設ける整備工事が記録がある。この時、宮内庁発掘調査も行われていってる。


  ●文久修陵でかかった費用
 文久修陵では百基近い天皇陵が整備がされたが、応神にかけられた費用は全事業費の内の3.6パーセントにあたる、3050両にのぼる。他の陵墓整備は200両〜600両の範囲で行われていたのに比べれば、これは格段の差だ。(『文久山陵図』p300〜より)
 一番費用がかけられていたのは神武天皇陵で全費の17.7パーセントにあたる、1万5062両1分2朱とダントツ。その次が応神。その次が、これは秋本家の負担だったようだが雄略帝陵(伝第21代)で2386両1分と銀7匁5分。その次が景行帝陵(伝第12代)で1822両と銀2匁2分3厘。その次が北朝光厳帝陵で1771両1分2朱。その次が神功皇后陵で1068両1分。これ以外の修陵で1000両超えた事業は無い。
 工事費の他、耕作地だったのを地上げしていく費用が含まれている。法外に安く買い叩かれ、泣かされた地主もあったようだ。
 ちなみに、「神武陵」の主体となった小墳丘については、中世の国源寺の方丈堂の基壇であった、というのが通説になっている。その国源寺は、天武系の皇統による『書記』編纂により、「神武陵」が畝傍山東北にあるされていたのを前提として、創設された「陵寺」だったという。*10

  ●近代からの森林景観の好みの偏向と改変
 明治政府になると、修陵というのは必ずしも「古制」にのっとらなくてもよく、史実よりもむしろ美観が尊重されるようになり、陵墓治定の基準も緩和された。*11「鎮守の森とみささぎの森の近代化」とは、こうした風致政策のことである。
 「鎮守の森」というので調べてみると、「となりのトトロ」観も変わる話も見えてくる。

      • 小椋純一氏(京都精華大学):『鎮守の森は古くから保護され、原植生を残していると考えられているが、1970年代の滋賀県での調査結果をみると、必ずしもそうではなく、意識的に鎮守の森の保護が始まったのは明治時代であろうと思われる。』([PDF]『下鴨神社糺の森の景観変化と 江戸中期の森の維持管理』より)
      • 小椋純一氏:『明治神宮の永遠の森構想は仁徳天皇(伝・応神の皇子)陵がモデルとなっている。明治神宮の森を作った上原敬二は「原生林」である仁徳陵が理想だと書いているが、1920年代に原生林であったとは思えない。戦後まではマツ林だったのである。好みが変わった?植生の景観がアカマツから広葉樹へ変化しているのは、植林によって常緑広葉樹を植え、残してきているからであろう。近代以降の広葉樹林化は風致策の結果であり、好まれる森林が変化したことを意味するのだろう。その背景として指摘されるのは、天然更新の森は管理が楽だということではないかと思われる。』([PDF]『絵図・地図から見た身近な森林景観の変化』より)



 上の話と一致して、山陵の森も、明治11年から20年頃の間に、「指定された陵墓の植生を変える」事業が行われた記録が残っている。(『幕末・明治期の陵墓』p107〜で参考。*12
 その「伐採・植樹の傾向」というのが、「桜を唯一の例外として、落葉樹が伐採されて、常緑樹が残されて新たにも植樹された」という。慶応3年に描かれた各陵墓の修陵前・修陵後を比較した図絵集(:『文久山陵図』)で見ても、前後で樹の好みの偏向があった事が分かる。ただし、陵墓として管理対象にはなかった古墳では、わたしの知るところでも現在も落葉樹の方が優勢して植生している状態だ。(美的にいえば、こういう雑木林は見た目にも実質的にも涼しげで、これはこれで良いなーと。)


 「山陵も耕作地になっていた」とか生活物資を得るため活用されていた、と書いたが、その中では、禿げ山状態となったものも、この『文久山陵図』に描かれている。小椋先生の講義ではなかったが、大学時代の美術史の授業で、小椋先生の研究内容から「現代よりも、江戸期の方が樹木植生は少ないのだ」というのは聞いていた。かつては、「木がない」状態で「山が荒れていた」状態だった。現代、樹木はあって「山が荒れている」と言われるのは、薮化や人工林、二次林の手入れ放置のことで、言われている。『日本の森と木と人の歴史―総合年表』という辞典(日本林業調査会編)を見てみると、いくつかその原因となるトピックが挙げられる。

        • 飢饉や数年に一回は発生する大火によって、木材の需要が拡大したこと。
        • 社寺や城の造営のための伐採。
        • もののけ姫』でも描かれていたが、鑪(たたら)製造というのには、莫大な木材が使われた。燃料に必要な材木が、年間で1万ヘクタールの山林分にも達したという。
        • 塩の生産と製塩用燃料としての木材の消費。近世初頭から、瀬戸内十州が全国塩需要の9割まかなっていた。塩需要の増加に伴い、1釜屋の年間消費燃料をまかなうのに1年で約20万本近くの松が必要だった。これにより、「周辺地域の森林荒廃に少なからぬ影響した」とある。

 

  ●拝所の造りの変遷


 明治12年に描かれた応神の拝所の大きさの寸法を見ると(右図ではなく俯瞰図の方でだが)、幅10間(18.18m)とあった。この時未だ現在の半分ほどの規模だったと分かる。荘厳な印象をさせる雛壇も、未だ無い。
 柵は、現在、花崗岩の石柵で、これは全国の陵墓に今共通と思われるが、幕末に山頂上から移動させた時は、簡易な竹製の柵が廻らされたという。右の絵が描かれた明治12年の修陵の時、竹から木の柵へと変わった。明治30年、木柵から石柵になり、また鉄製の扉が付けられ、拝所幅と道路の拡張も更に行われた*13
 応神の今の拝所の様子に変わったのは、宮内庁書陵部の人に訊いてみると、1940年(昭和15年)の「紀元二千六百年」の奉祝に合わせて造成した時だそうで、拝所規模も参道もこの時にもまた拡張されたらしい。紀元節に合わせた「皇室祖先」の陵墓整備は、他各地で行われていた。『紀元二千六百年記念行事』-Wikipedia参照



 とりもなおさず柵が設けられたということで、『幕末・明治期の陵墓』によれば

p1〜、色文字部分はYOWによる補記
 今日の陵墓管理の基礎は「文久の修陵」の際に形作られた。それはおよそ、

  1. 一旦決定した陵墓比定は変更されないこと、
  2. 陵墓内への立ち入りを認めないこと、(それ以前は年貢地としてや生活の糧を得る山林として活用されていた)
  3. 天皇家の先祖の墓所として崇敬されるべき聖域であること

というものである。もとよりこの1、2については例外的な処置がない訳ではないものの、基本的には、これらは今日に至るまで陵墓管理の金科玉条として墨守され続けてきたのである。

とある。
 ただ、明治期に至っても、柴や倒樹や蔓枝といった「有用資源」の払い下げ名目で、度々当時堺県に「みささぎの掃除」の上申を村落が行っていて、そういった「墳丘利用」というのがしばらくはあったらしい。また明治に、周壕に新たに水を入れて灌漑用水とされる場合もあって、そうした「周壕利用」というのは、現在でも行われている。


 最後に、幕末の政治的な背景の説明を。


  ●政治側の「超越性利用」のための江戸期修陵事業
 文久修陵とは、「文久の改革」の一環だったが、それは「1862年(文久2)に急進的な尊王攘夷派に擁せられた勅使大原重徳および三条実美の幕府への圧力による、幕藩制秩序を踏みにじるもの」だったと、『新編 日本史辞典(記述は池田敬正氏)には説明されている。わたしは大河ドラマ『篤姫』は観ていないが、先週回に夫の十三代将軍が亡くなったようで、今後に、文久改革のエピソードも出てくるかもしれない。
「陵墓」からみた日本史

「陵墓」からみた日本史

 以下は『「陵墓」からみた日本史』を参考にした。幕藩体制維持のための「朝廷、天皇の超越性の利用」で「天皇陵修復」が政治手法として注目されるようになったのは、すでに江戸初期からあったという。ただしこの時対象は山陵(みささぎ)ではなく、深草十二帝陵の埋骨所・法華堂の修復だった。
 幕府的に、「神武を開国の祖として特別視し祭祀の対象とすべきだ」という認識が出てきたのは、元禄7年(1694年)からだという。(以上p.165〜170) ただし、被支配層や知識人の間ではすでに畝傍山への一定度の崇敬、「祟りがある」といった畏怖心があったのだそうだ。(p.176と184) *14 
 元禄期に幕府側から朝廷に進言し、費用全額支出・幕府主導で、修陵事業が行われた。元禄十年九月に、天皇陵の「探索」が行われたのだが、

p.170〜171より
 同月十日に大和国の村々に回状をまわし、御陵所在の有無および御陵伝承地の回答を求めた。集まった村々からの口上書によると、天皇陵の伝承地の存在を答えたものもあるが、村に誰のものかは不明だが古墳が存在することを回答するものも多かった。しかし幕府は村々の答申をそのまま採用し、天皇陵として治定した。すなわち、乏しい根拠により天皇陵の所在地を確定したのであった。 <中略>
 幕府はこの時、神武天皇陵を治定し、神武が初代の天皇であり、その陵も現存するという姿勢を示した??

 その後文久期に至っては、神武陵において「攘夷祈願」が行われるほどになり、つまり「国家鎮護」の機能もさせるようになっていった。(p.187)


  ▲以上が、p.159〜の『江戸時代における天皇陵と幕府・民衆』羽中田岳夫氏著よりの参考、引用 
  ▼以下からp.189〜の『[研究ノート] 幕末尊皇論の形成 ?水戸藩の修陵建議をめぐって』野村美紀氏著を参考


 そうした、幕府の「朝廷・天皇の超越性利用」が、結果的には朝廷の権威の上昇をもたらせていくことになる。(「権力」側と「権威」側の関係については、d:id:YOW:20070719の図を参照のこと) 著者は、もっとさらに具体的で世俗的「利益」があった経緯を追っている。
 それは、文久修陵に大きな影響を与えた、水戸藩の幕府への度々の修陵建議の、「背景」について、である。水戸藩の建議は天保5年(1834年)から始まるのだが、「一貫して神武天皇を問題としていた」という特徴を指摘している。(p.192) そこには、「内憂外患」というよりも「内患外患」であるような、内部藩政の「行政改革」というのが、みえてくる。
 有り体に説明すると、水戸藩の藤田幽谷という儒学者が、今後は「やっぱり人材登用は家格より実力重視の方向でいこう」という行政改革を掲げ出す。それと同時に矛盾する「現実の人事は、家格に基づくべきだ」とも言っている。
 改革といっても、「今の法は細かくて煩わしいだろうからこれを整理して、簡潔であった<祖法>に戻すべし」というもの。祖先の遺訓に戻れとしたのだ。「祖先の遺訓」とは、血統によって継承される。血統主義と実力主義という、相反するものの良いとこ取りする上で、ここから「超越性」が持ち出されてくることになるのだ。
 出納処理など実務的な職(重臣以下)の登用においては、能力主義優先の態度を示す。そこで持ち出す「祖法」といえば、水戸藩の祖先の法となる。
 一方で、重臣の登用においては、血統主義優先を示す。そこで持ち出す「祖法」といえば、「東照宮(家康)のご遺訓・ご遺法」となる。つまり都合によって、より上位のものへと「権威」を上昇させる、単純なトリックがあるのだ。
 基本的には、能力主義への歯止めをかけたいというのが、この改革の要だったことが分かる。内部の血統主義の論理のために、「東照宮のご遺訓」を掲げ、それがやがて「天皇のご威光」利用へと権威を上昇させていった。徳川家の正統性の根拠は「戦乱に勝って統一を為した」ということ。力による権力、つまり物理的支配には限界がある。そこで家康も尊王を利用したのだが、家康のその姿勢をもって「だから尊王こそが文武の最も大事」と説き、これを論理の後ろ楯とした。
 政治思想史的にみれば、これは「権力側の委任獲得のための権威利用」の典型的なパターンである。血統主義固持のためこそ、やがて初代大王の神武天皇にこだわってみせ、そのデモンストレーションとして「神武天皇のご陵を修陵せよ」と、幕府を威圧していく。将軍家によって神武天皇陵の修復を行う事で、戦乱の覇者としての位置付けを示せる、としたものだった。

 そして、結果的には、幕府の威信が高まるよりも、朝廷の浮上の方に一役買ってしまうことになっていった、ということである。

*1:刑法第24章「礼拝所及び墳墓に関する罪」。『幕末・明治期の陵墓』によると「聖域なので領域内への立ち入りを認めないこと」といった「今日の陵墓管理の基礎」というのは、幕末文久改革での「文久の修陵」の際に形作られたのだという。(p1〜)

*2:参照:高槻市ホームページ『今城塚古墳の史跡公園化整備事業について』、Google検索「今城塚古墳 伐採」

*3:前々回http://d.hatena.ne.jp/YOW/20080511で言う「存在論」って何?と言うと、大雑把には、こうした「自然主義的」な考えである、とわたしは理解している。

*4:

映画の教科書―どのように映画を読むか

映画の教科書―どのように映画を読むか

「レンズの種類と性質」の章、p.70より引用:『レンズ技術においてまだ解決のつかない大きな問題が一つだけ残っている。広角レンズと望遠レンズは画角が(そしてそれゆえに拡大率も)違っているだけでなく、遠近感の効果も異なっている。この二つの可変要素を一緒にコントロールできるレンズを作り出していないのである。アルフレッド・ヒッチコックは長年この問題に取り組んでいたが、移動レールと模型と注意深く操作されるズームとを組み合わせて使った『めまい』(1958年)の有名な塔のショットで、ついにこれを解決した。ヒッチコックは模型の階段を横に倒して設置した。ズーム・レンズをつけたカメラがこの階段の吹抜きを“見下ろして”移動レールの上に乗っている。ショットのはじめではカメラは移動レールの最後端に あり、ズーム・レンズは望遠の焦点距離を中ぐらいにとっていた。カメラが階段の吹抜きに向かって前進するにつれて、ズームは後退するように操作され、最後は広角の位置まで回された。移動とズームは注意深く調整されたので、映像のサイズは変わらないように見えたのである。(カメラが被写体の中心に向かって移動するにつれ、ズームは狭くなる視野を正すように引き下がった。)その結果スクリーン上には、ショットのはじめには正常だった遠近感が急速に誇張されはじめ、めまいという心理的感覚を模倣するという効果が生じた。このヒッチコックのショットは数秒の上映時間のために19000ドルを要した。ここまでを要約すると、レンズは短ければ短いほど画角は広くなり(視野が広くなる)、遠近感は誇張され、直線の歪みは大きくなる。レンズが長ければ長いほど、画角は狭くなり、遠近感は乏しくなる。』

*5: 『ますだの気まぐれ日記  映画講座(22)「キャメラ技法・その4」』(http://t-masuda.at.webry.info/200604/article_2.html)より引用。:『しかしこの手法、プロの人たちでも難しい。ズームと移動とピント、この三つがぴたりとタイミングが合わないと、即NG。私もこの手法が好きで、数本に一回の頻度で使ったりしますが、最低でも10テイクぐらいいきますです。』

*6:http://www.js.yamanashi.ac.jp/~skita/kei6.htm:『6.2.2 仰角(angle of elevation)と囲まれ感』のメルテンスの法則参照

*7:享和元年1801年酉年11月刊行。著:秋里籬島、画:丹羽桃渓。秋里籬島は他に『都名所図絵』『近江名所図絵』『摂津名所図絵』の著作がある。

*8:明治12年10月〜11月にかけて制作された陵墓調査の為の図絵。原画は彩色画なのだが、掲載では印刷に載り易い2階調の線描におこされていた。図絵所蔵は大阪府。『羽曳野市史 第六巻』p866より

*9:『羽曳野市史』第二巻p.728〜730、『「陵墓」からみた日本史』p.205『江戸時代の「雄略天皇陵」の修陵の実態』参考

*10:「陵墓」からみた日本史』の『始祖王陵としての「神武陵」』p147より。

*11:『羽曳野市史』第二巻p.730〜より

*12:幕末・明治期の陵墓』によれば、『大阪府庁文書御陵墓願伺届』『陵墓誌』『御陵沿革取調書』に記録されているという。

*13:『羽曳野市史』第六巻p881より

*14:p184での、川路聖謨『神武御陵考』の引用箇所:『神武田開きたるものはいくほともなう子孫迄死うせて今はあとなくなりぬ』