『サマーウォーズ』レビュー -サマーウォーズの「世の中」/ラブマシーンはゲームを「プレイ」したのか?
細田守監督映画 『サマーウォーズ』公式ページ:http://s-wars.jp/index.html
家族のドラマ、ノスタルジーと外史
作品通して、背景に美しい積乱雲がモクモクと立ち湧いて、A.I.ラブマシーンとの対で描かれているところが印象的であった。積乱雲が水滴一粒一粒を集めて膨むという自然現象と、ラブマシーンがソーシャル・ネットワーキング サービスの中でアバター数億人分を捕え吸収して狂神になっていくのと。気候もA.I.も、侘助が言う通り、善でも悪でもない。
そして広大な陣内家屋敷の中庭の造りが、いわゆる「借景式」をとっていたのも、この作品内容には合っていた。*1
造園の用語で借景式について「景色を生け捕る」という言葉があるのだが、陣内家の庭は、遠景に信州の山並みを捕えている。屋敷はおそらくかつて小山だったのを頂上を平に削って築いたのだと思われる。100畳ほどの大広間がその庭に面してあり、そこで田舎の晩餐が繰り広げられるのだが、庭側に向けて張り出す縁側の廂(ひさし)と、鴨居に垂れ下がる雅やかな房飾りや絹の縁の付いた御簾(みす)とが、庭の景色の額縁を成してある。
中景にあたる空間には上田市という町があるのだが、ちょうど屋敷の立つ地形が凹地・谷状の「コンケイヴ」になっているので、中景の町はすっぽりと視界から抜け、近景と遠景の景色とがダイレクトにかち合う。これは、借景式庭園としての条件でもある。近景は自然に対立させた「人工的」な空間として設えられるのが、ポイントである。
雲や山の自然を背景に、カメラの近景では、大家族の面々が集って、「家族のドラマ」が繰り広げられている。昭和の家族ドラマによく登場した、カメラに対し平行に食卓と人が並んで食事場面が撮られていたのをどこか想起させる。あのダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にも似た食卓である。
これを観る前、「絵が良いんです」と推したある人は、全面ににじみ出るノスタルジーというのが魅力だった、と言っておられた。
「ノスタルジー」というのは、正史たる「勝者の歴史」が編まれる際に、真の偶然性(<現実界>だとかヌメナだとか)は歴史から排除されるが、そこで空いた穴を埋めるようにして、発生してくるのだと言う。*2
天正時代に徳川家と戦った陣内家は、徳川の正史、日本史正史には編まれなかったのだ。その疎外自体を武勇伝として伝承しているがゆえ、上田村や陣内家にはノスタルジアが溜まり、醸成されていくのかもしれない。
「世の中」 ―国でもない 世界でもない セカイでもない
逆に、この映画について、「ツッコミどころが多い」と感想述べた人もいた。
たいがい、どこをツッコミどころと認識したか、容易に想像はつく。一つに、陣内家にまつわる「ご都合主義」を言ってるのだろうが、それはこの作品の―静的ではあるが、―どんどん入れ子のようになっていく「世の中」の構造を、まだ捉えられてないのではないか。そうも簡単に「ツッコミどころ」とスルーするわけにはいかない。
室町から始まり戦国時代は上杉の家臣であった武家旧家の陣内家というのは、警察官、消防士、自衛官、水道局員、科学者、電器小売り、医者、レスキュー隊員、介護士、はたまたネットゲームのアイドルといった、職種・「役割」の人々で構成された大家族で、そこはもはや一つの国のようであり、生活インフラや利器、セキュリティ治安、娯楽といった要素が詰めこまれた「くに」の箱庭である。もしくは、陣内家だけで、もう中世や近世の城下町を模擬しているようでもある。彼らは、各職業の記号化擬人化でもないが、といってその役割に対しては「入れ替わりうる個人」で、人物像に対し役割が優位的に描かれている。キーパーソンである科学者・陣内侘助と、ゲーマーの佳主馬少年を除いてだが。
この陣内家の屋敷自体が、戦国時代からの城郭という更なる「箱庭」の中に存在していて、その外側にも、「OZ(オズ)」という電脳空間での箱庭が広がっている。OZは陣内家家族半分もがユーザーであるソーシャル・ネットワーク・サービスで、日本のユーザーも多く、世界中に数億人のOZユーザーがいるという、世界が陣内の屋敷-町-日本-世界と同心円状に連なっている。更にここに人工衛星という要素が加わるのだ。
陣内家では、当主以外の女たちは「かまどの神」の主婦で、城郭や直接の人間関係以外の関わりや関心がどうにも薄そうだったのが、まあ、私には観てて心地悪くもあった。
その「個々の直接の人間関係」を最大の武器にしているのが、16代目当主の栄おばあちゃんである。彼女のその「武器」の効力は、内から外へというのでなく、栄おばあちゃんを求心として外から内へと物事がおとずれてくるという事で成り立ってもいる。それを示すものが、彼女を慕い頼ってくる企業家や政治家などから書簡の多さでもある。彼女の世の中に占めるこの位置が、ラブマシーンが数億のアバターを身に取り込んでいくという事件と、対になって視えてくる。
まるで安楽椅子の探偵よろしく、栄おばあちゃんは城郭外の世界のレスキュー隊員や警視総監や政治や企業の重鎮と直通電話で繋がっている。彼女の座す場所が放射線状ネットワークの中心にあるのだ。そうした「直接の関係性」は、武家社会の名残りとして、表されている。自衛隊、政治家、外国軍隊などの「近代国家」としての要素が作中に現れつつも、国でもなくもゆるい「世の中」の状態にある。
中盤で、ラブマシーンを作ったのは自分だったと告白する侘助に、親族の男が「世の中に迷惑かけやがって!」と殴りかかるところがある。栄おばあちゃんの万能性や、箱庭のような城郭の町やOZが無ければ、特に着目する台詞にはならなかっただろうが、わたしは、この「世の中」というのが、この作品の大きなキーワードなのだ、と感じた。
ラブマシーンはゲームを「プレイ」したのか?
侘助は自分が開発したA.I.に「ラブマシーン」というまるで性玩具みたいな名前を付けたのだが(ちなみに「侘助」というのは、朝顔や椿の品種名である)、私はモーニング娘。の曲『LOVEマシーン』よりも、ジェームス・ブラウンの1970年の曲『セックス・マシーン」』の歌詞を思い起こしていた。あまり映画の雰囲気に相応しいと言えないが。
そして侘助が埋め込んだというラブマシーンの「欲」は、要するにそれはリビドーであることに思い至るネーミングでもある。
知的欲求を埋め込まれたA.I.「ラブマシーン」には、同時に「ゲームをしたい」欲求も備わっていた。侘助はラブマシーンのサイバーテロについて、「あいつはゲームをしたいだけだ。善も悪も無い。」と語っている。ゆえに、夏希たちは花札ゲームに誘い込めたわけでもあり、最後の大逆転も起こらないことになる。また、ゲームをしたいという欲求にはそこで上手く勝ちたい欲求も自然含まれているだろう。
ここで疑問が湧いてくる。知的欲求とゲームへの欲求の関係というのは、何だろう?
知識を得たい欲求を埋め込んだだけで果たしてゲームをプレイして勝ちたい欲求に、繋がるだろうか?
ラブマシーンが、当初はまるで積み木の塔を倒して面白がる幼児のようだったのだが、花札を遊べるようにまでなったのには、開きがある、とわたしは観た時に少し感じていた。アバターを取り込むことで成長を遂げたからだ、とは言えるが。
幼児も猫も、遊ぶことは知っている。ではリビドーのように「純粋なプレイ」というのはあるのだろうか?(犬や猫や乳幼児の遊びは「プレイ」と言えるのだろうか?)
もともと博徒による花札の場合、ポーカーの試合もそうなのだが、単純にカードで役を作っていくゲームであるというより、喋り方や表情や、気持を抑し隠した態度など、パフォーマンスや心理的な駆け引きが、ゲームの勝敗を決めていくものである。(主人公がポーカープロを目指すマット・デイモン主演のドラマ『ラウンダーズ [DVD]』も参照すると良い*3)
OZでの花札対決では、夏希がラブマシーンを誘い込めた時点で、すでにほぼ勝負に勝つ事が決まっていた。チェスや将棋よりも花札やポーカーなら、A.I.に対し人間が優位だろう。ロジックで対峙して誘導すれば良いのだ。ロジックに忠実な分、生身の人間よりもA.I.は御し易い相手だろう。
侘助が「ラブマシーンはゲームをしたいだけだ」と言ったのに対して、OZの格闘ゲームのアイドル「キング・カズマ」こと佳主馬少年は、自分はゲームが好きなのではなく、スポーツの勝負が好きなのだと言った。佳主馬が侘助よりも「プレイする」という事について自覚的であるのを示す場面だ。「プレイ」に長けるには、虚構(フィクション)に対する能力が関わってくる。自分の演ってることを「これは高度なフィクションである」という、フィクションに対する更なる虚構性において、名プレイというのが演じられる。この自覚という、「虚構に対し自分を抹消する」ことを、反面で主体性とか疎外ともいうのだが。佳主馬が身につけた冷静さは恐らくここに合致している。ラブマシーンには、リビドーはあったが、まだ「プレイ」をする主体は備わっていなかった。
「A.I.が、リビドーを持ち、直に暴走をしだす」というすでに古典的となったSFのパターンから、ここで更にもう一つの問題を見せてくれる。
映画『イノセンス』に登場したガイノイド・ハダリたちは、主体性の無いリビドーだけのA.Iしか装備していなければ、顧客の人間はプレイに満足出来ず、結局は普通にロールプレイングゲームのプログラムを仕込まなければならなかったかもしれない。顧客にリアルな性的奉仕をさせるために、実際の少女たちから採った「ゴースト・ダビング」が埋め込まれていた。それは、人形が単なる空洞の容器なのではなくその中に、時には顧客自身が抱える陰湿さや惨めさをも映し視線を投げ返してくるという他者性が、プレイにおいて必要だということである。
そうして、ゴーストを埋め込んだ人形を、人間は「これは作り物・ゲームに過ぎない」として距離をとることで「本当の人間の良さ」へと再帰させ安心させるがための道具として、やはり奉仕をさせるのだろう。
ラブマシーンがプレイに未熟であって、ゆえに人間の勝利がみられたことで、リビドーを持ったA.I.のサイバー兵器よりも主体性のある人間によるサイバー攻撃への再帰というのが、果たしてこの「世の中」で、ここから起こるのだろうか?
ゲーム・プレイと擬制
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まず、賭け花札、そして女系、というのと。
栄おばあちゃんの陣内家と、『緋牡丹』シリーズでの2つの女親分一家(当時藤純子氏と清川虹子氏)、両作共に、先代は男の当主だったため、女系のまとまりではあるが母系ではない。その組織は男親分の組と同じで縦社会で、形式が重んじられている。Wikipedia「ヤクザ」を見ると、博徒の起源は平安期、侠客の起源は室町時代とあって、『サマーウォーズ』陣内家も台詞から「室町時代まで遡れる」というから、案外その頃は侠客だったのかもしれない。
『緋牡丹博徒』の任侠世界では、違背やトラブルが起きると、その裁きを抽象化するのに花札賭博が使われ、「もし勝ったらこっちの条件、負けたらお宅の条件で」と、ある程度やゲーム性や偶然を介入させることで、判断や配分の公平性を担保しようとしている。この手打ちが、わりあいフォーマルなものであるとして、双方は受け止めなければならない。ロジェ・カイヨワが、有名な「遊び」についての研究で、賭け事の起源を、占いや擬制に見たというのを思い出させる場面だ。
賭博は白黒は付けるのだが、価値判断はしない。でないと「手打ち」にはならない。勝負結果に、緋牡丹お龍側が対峙する相手があや付ける(インネンつける)というルール違反を重ねる事から、出入り(戦争)に発展する、というドラマツルギーになっている。
更に、こうした「直接的人間関係」の任侠社会では、違背に対する反応の義務が成員にはある。この社会において、デキる人間として認知されるには、自分や身内に生じたトラブルに際し、「この件は自分に始末させて下さい」と親分衆への宣言をし承認させる、という行動とるのが、期待されているようだ。(『サマーウォーズ』では、栄おばあちゃんが侘助を叩き出した後に「身内のやった事はうちで始末付けるんだよ!」と全員に檄を飛ばす場面がある) 親分衆は、「ではお手並み拝見しますよ」と見届け役をするのと、場合によってその「ゲーム」に自分も参画もしてくる。緋牡丹のお龍親分が儀礼的に振る舞ってみせ、親分衆もそれへ儀礼的に反応する事によって、「始末つけて見せます」と名乗り出たお龍の表情や采配の仕方からはいきおい、ゲーム・プレイ性がおび始めるのである。
余談・・・レビュー書くまでに
こないだ、初めて夏コミに行ってきた。
筑波批評社さん(id:tsukubahihyou、http://www.tsukubahihyou.com/)から夏コミ号の表紙デザイン任されたことで、コミックマーケット見に行ってみようと思い立ったのだった。*4
上京前は、自分で何か出してみたくなるだろうかという淡い期待があったのだが、想像していた以上に規模が大きかったのと、知ってる人の出してる同人があっても混雑で西館東館の行き来もままならない等で、なんかシビアな世界だったですねー。お下がりのライカ携えコスプレの女の子撮ってやろうなどというわたしの奢りも、会場混雑の前に吹っ飛んだ。それでも写真撮るのに必死になってしまい、Twitterフォロワーさんの「コミケなう」とかはチェックしてなかった。
お会いしたリュウセイさん、遅ればせながら、ブログで紹介下さり、ありがとうでした!
帰りに、筑波批評さんの打ち上げがあったのだが、作品の話題に付いていけない事しばしばだった。わたしは、ここ5年以上は録画機の無い生活が続いてて(困る事もたまにあるが買うのがめどい)、よく見る雑誌は『たくさんのふしぎ』『美術手帖』『装苑』くらいで、もっぱらはてブやTwitterがコミックやアニメ、文芸などについての情報源で、気になるのがあれば数ヶ月遅れでチェックしてます、というのが常だった。
また、サマーウォーズは観た?と訊かれても、実は、テレビシリーズと勘違いしたりもした。一応、貞本義行のエヴァコミ買ってるし、『時かけ』も劇場で2回観たよ、
帰って早速、友人を誘って『サマーウォーズ』観に行き、関わった筑波批評の特集がちょうど『ゲームの思考』だった事もあり、レビュー書いてみることにしたのだった。最近は文章書く事で欲求充たさないようにしろ、という暗示のようなものが働いてて、今回書き始める際にその心理的な錠を外すのに時間がかかりました。
*1:参照:借景式について:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20080722/p1
*2:スラヴォイ・ジジェク『汝の症候を楽しめ―ハリウッドvsラカン』p.127-
*3:1998年 ジョン・ダール監督
*4:表紙デザインと目次紹介:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20090721/p1