蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

絵画で正史はどう描かれたか -藤田嗣治の戦争画の場合

この記事は前回からの続きです。


 近年戦争画に注目されて、アート界ではちょっとしたブームのようになりました。つい数年前までは「戦争画に興味あります」などと言おうものなら他のアーティストにドン引きされることもありましたが。
 私は歴史画というテーマで取り組んできてますが、美術史においては歴史画というと、かつて「正史」を描くことを担ってきたと。正史とはつまり、王朝や国などが編纂し対外的に正統であると示す歴史であると。

 これは最初の打ち合わせの時に速水螺旋人さんが仰ったんですが、「めちゃくちゃナショナリスティックな信条の作家がその歴史観でもって描いても、面白い作品が出来るなら凄いことじゃないのか」、と。後日、漫画の世界では安彦良和の『虹色のトロツキー』がそうだとも仰ってました。私も愛読してきまして、速水さんの言うことも頷けます。

虹色のトロツキー (1)

虹色のトロツキー (1)

 いわゆる現代アートでは、カウンター表現であること自体がもはや規範のように考えられているところもあります。とりあえず、ここでは絵画で「正史を描くとはどういうことだったか」という疑問を改めて立ててみました。そこで、画家としての私の見解で、藤田嗣治を取りあげてみたいと思います。調べた中で、藤田のパリ時代の成功についても副次的に見えてきたのでそれも次回取り上げたいと思います。
 

戦争画はなぜ横並びの技法で描かれたのか

 
 藤田嗣治は私の大好きな画家です。図の左が本来の作風であって、右の戦争画の類は、藤田自身も自分のものとは違う何かとして描いてたんじゃないか、というお話をして参ります。藤田の大々的な回顧展は京都で10年前にあったのですが、戦争画の類はその時出展されておらず(確認したら『アッツ島玉砕』が出展されてました、記憶にございませんでしたw)、私は2012年になって、東京で初めて実物を見ることができました。彼の戦争画の第一印象としては、今まで見てきた藤田の丹念な仕事ぶりとは違って、量産体勢と早い納期のためか、一作にかけられるエネルギーをなるべく抑えた描き方をしているな、と感じました。配布資料の絵の具の説明でも書いてますが(コチラ)、戦前はまだ絵の具や下地剤もキャンバスも手作りする人も多く、そして藤田はパリの美術仲間のうちでもおそらく最も、画材について研究熱心な人だったのです。自分の手法を藤田はずっと秘匿していたため、1990年代後半になるまで、専門家にもどうやってるのか分からないところがありました。しかし現実に「画面に画材がちゃんと付着している」ので、藤田は数多くの実験をちゃんと試みて、経過観察というのをしていたわけですが、そうした試作は数ヶ月や数年を要しますから、1920年代はモダニズム全盛だったこともあり、絵画ではちゃんと試作やってみる作家は、そんなに多くなかっただろうと思われます。当時の絵描きは、試作やるよりも早く描いて出してしまいたいというタイプが大半だったと思います。それをよそ目に、藤田は研鑽の結果、藤田オリジナルの、清潔感のある優美な画面が可能になったのですが、誰の追随も許さない大変に優れた仕事だったと思います。
戦前は、アッツの前にもこういった群衆図の大作が何点かありました。

 
 さて色んな美術展で色んな作家の実作を観ますと、数世紀前の作品でも、使われている絵の具や顔料によって、作家の経済状態、オファーしたパトロンの力というのが分るんです。

 レンブラントは私も大好きな画家なんですが(ここも私が実際で観た作品縛りで挙げていきます)、左はイケイケだった時太い顧客がいた時代の大作で、これも素晴らしい出来でしたが、レンブラントって面白い人でして、ガラクタや骨董の買い過ぎて破産して、晩年の作になると、高価な顔料使えてないことが分ります。絵の具で生活の困窮ぶりが伝わってくるわけです。

ギュスターヴ・クールベ1854年

それとは逆の例で、クールベですが、彼は社会主義者で農民や無名の人を描いたことで知られていますが、作品の実物を観ると良質な顔料が使われていまして、存外に裕福な人だったんだなと分ったりします。


 話は藤田に戻しまして、戦争画になって、それまでの独自の技法は用いず、非常に簡略的に制作されていると。これは、陸軍美術協会の他の洋画家、御厨純一、宮本三郎など技法にかなり横並びな印象がありまして、彼らは一律に効率的な描き方というのを採用しているなと思われました。協会で兵士がモデルを努めたデッサン会は催されてたようですが、戦争画制作の研鑽会のようなものがあったのかどうかは、調べた範囲では出てきませんでした。


 油彩では、グリザイユという手法がありまして、墨色、白、土製の茶色、或いは土製の緑色など、少数の顔料で、モノクロームに描くというのがあるのですが、ルーベンスが特にこうしたラフ・スケッチを数多く残しています。そして、実作作品の下描きにおいてもこのようなグリザイユをします。本当に下描きだと、上から描画していくので後世の人間は見ることが出来ませんが、


 私の作品の下描きの時の写真ですが、絵の下層ではこうしたグリザイユ技法で描き、上層で、赤や青といった固有の色を載せていきます。(完成写真はコチラルーベンスがグリザイユを沢山残してるので、描画層に覆われた下描きの分析が後世に行われました。



 『アッツ〜』の部分写真です。少ない絵の具数で完成されていますが、これもグリザイユ的な手法と見ました。世田谷の宮本三郎の美術館にも行って観てきましたが、戦後は様々な画法の探究、試行錯誤をしていて、藤田と同じく宮本も、陸軍美術協会でやっていた時とは全く違う技法探究をしていました。

御厨純一『ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲』(昭和17年

 航空戦の絵の場合も、カメラ位置が特殊でしかもだいたいが構図が優れているので面白く見えるんですが、描画層がかなり簡略化されていて描き込みが浅く、この作品でもタブローとしては物足りなさを感じました。実際に鑑賞するタブローとしては物足りなくても、写真写りメディア写りは良い作品、というパターンです。
 戦時中は絵の具は配給制にあり*1、使われているのはいずれも土系の安ものが中心で、このアッツ玉砕も、70年経て絵全体がかなり暗く変色してるものと思われます。描いた当時はもっと明るかったのではないかと考えています。戦後しばらくの間、保存の悪かった時期があったのかもしれません。で、更に意地悪な見方をしますと、パリ時代からの画材のストックが家にあったのかどうか、家に上等な絵の具のストックがあって、それを出し惜しみして配給の絵の具で描いたのではないかと思いましたが、これも私の推測に過ぎません。パリ時代の作品は色彩も深みも美しく残っていますが、それらとは違い、戦争画では藤田自身、短期に消費されるものとして描きとばしたのではないかと思えます。
 大戦末期になると『アッツ〜』のような凄惨な描写も陸軍から協会にオファーはされていまして、宮本三郎『飢餓』もアッツ島玉砕図の同年1943年に発表しています。
 「厭戦気分を催しかねない凄惨な描写」に関しては藤田は、当時のインタビュー記事やエッセイによれば、ひたすら絵描きとしての興味で描いてた、と思わせるところがあるようです。つまり特に政治的な主張は無かっただろうと。これに関しては、祭りの喧噪好きで柔道の嗜みもあったこと等から、『アッツ〜』を、取っ組み合いの様子を描いて腕を振るってみたかったのではと分析した河田明久氏の評論があり、絵描きの私としては説得力があります。*2
 藤田当人も「一つ私の創造力と兼ねてからかいた腕試しという処をやって見ようと今年は一番難しいチャンバラを描いてみました」と、これをチャンバラと称しています。*3 

 また、Twitter上で戦争画についてミリタリーに詳しい方々から、美術の人間ではとうてい気付けないような色々なご指摘や説明を頂きました。承諾を得て、ここで紹介をしていきたいと思います。

『哈爾哈河畔之戦闘』1941年




藤田に政治的マニフェストはあったか

 鴻英良さんによる、藤田の随筆などで1912年の大逆事件や当時の社会主義運動に関する発言・記述の”欠落”に着目し、そんな彼の「不自然」について書いた評論があります。*4 更に興味深いのは、藤田は1929年の大恐慌がきっかけでパリに見切りをつけ、1931年から約2年、中南米を旅をしていますが、パリ時代からディエゴ・リヴェラ(メキシコ帰国後に共産党入党)との交友があり、メキシコ旅行の際はリヴェラ、シケイロス、オロスコといったメキシコ壁画運動の作品を観て感銘した旨の発言はしているのですが、政治的意味合いを見て取ったことについては一切黙していたと。逆にこうした社会運動について批判や嫌悪や冷笑を示した記録も、見当たらないようです。シケイロスやオロスコ、リヴェラというと、ストレートな当時の政治表現をする作家なので、某かの反応を拾えないのは、奇妙に感じます。

 藤田嗣治の研究者・林洋子氏は『藤田嗣治 - 日本が生み、パリが育てた「多文化」の画家』と題した講演でこう説明しています。

 1930年代の中米、特にメキシコはヨーロッパからシュルレアリスト共産主義者が訪れるなど、文化的に多いに活況を呈した場所でした。藤田が中南米に「逃避」したのは、あくまでもフランスの文脈からでしょう。当時の日本人にとって、この地域はひたすら移民先だったのです。

 藤田自身は、リヴェラやメキシコの作家たちの仕事についてこのように好意的に書き残しています。

 更にメキシコは新しい美術を生んだ国である。新人ジエゴ・リヴェラ。ジョーゼ・クレメント・オロスコの両大家の名声は北米ニューヨーク、シカゴは勿論カリホルニア地方にてはメキシコ同様広く伝播されて、世界的大家として敬されて居る。其他、シキヱロス。モンテネグロを初め青年画家にも有名な人がいる。
(…)
 大成した現在はロックフェレールの壁画を描き、一メートル四方四百ドルすなわち千二百円の割合で収入を得ているという。メキシコの歴史、主に革命戦等を描きさらには機械文明を主題とした個性のある天才である。泥のような代赭色とかいうメキシコの独特のローカルな暖色を使用し壁画に直接に複雑した構図で描いている、オロスコの名前と共に有名であり、ことに北米の人は悉く知っている程である。

 研究者の林洋子氏も市川慎一氏も、藤田について「あまり論理的な人間ではなかった」と見ています。私は、彼の文章や作品を観て、非常に知的な人間だったとは思いますが、社会情勢を大局で見たりする能力だけが欠落していたのか、充分知的だっただけに奇妙さを感じました。ただ、藤田の父が、朝鮮総督府で軍医長にまで昇格した人でその父を心から敬愛していたようで、このことから、いわゆる社会問題一般が、彼の身上から他人事だったということかもしれません。

日本帰国、超エリートとしての矜持

 ところが一方で、1944年5月の雑誌に寄せた『戦争画制作の要点』という藤田の文章からは、藤田が陸軍美術協会や戦争画を自分が牽引するんだという高い志しやエリートとしての自負心があったことが読み取れます。
 映画『FOUJITA』の小栗康平監督はインタビューで、「西欧の個人主義近代主義を知ってる人だった」と語っていましたが、1920年代というと、欧米も日本も束の間の自由と平和を謳歌できた時代で、その頃に彼は大都市パリで成功したわけで、近代社会というものと個人主義の価値を知った人だったと考えても良いのではないかと。こうした洋行帰りのエリートの美術家たちが、「戦争になったら急にパッと国家主義に目覚めた」というのではなく、かつての1920年代のパリでの華やかな社交生活の経験、というものから、日本の挙国一致への意思・ナショナルな思想に到達というのが、わりに、彼らには連綿と連続していることだったのではないかと考えます。
 敗戦後、藤田はデマも含めて戦争責任を責められたので、日本を捨てフランスに移住しています。デマに基づく批判にも見舞われたゆえか、「日本画壇は早く国際水準に到達してください」とか「日本人は早く大人に成長しろ」といった捨て台詞をして行ったのは有名です。この戦後の画壇のいわゆる戦争責任追及を藤田に「引き受けて下さい」と泣いて依願したのは、同じく戦争画で旧知だった内田巌だったということです。*7 そんな
内田が戦後は日本のプロレタリア絵画を牽引する「書記長」になるのですが、やがてその名も忘れ去られるのは皮肉なものです。

 一方で、藤谷は西欧の個人主義が身についてるゆえの、捨てセリフだったんじゃないかとも私は思いました。というのも、それで私が思い出したのは、丸山眞男の論文で、極東裁判での被告の自分の意思の無い、抑圧移譲をさらけた答弁だったのと、対して、ニュルンベルグ裁判でのナチスの被告たちによる、確固とした自分の意思による政治的選択だったんだとした、開き直りともとれる自覚的な答弁とを比較した有名な論文ですが、それを思い出させるような、捨て台詞でもありました。



 次は、藤田のパリ時代の成功について、書いていきます。http://d.hatena.ne.jp/YOW/20160312/p1

*1:画材配給についてサクラクレパスの記事:http://www.craypas.com/target/senior/colum/0909.php 配給でどんな顔料や油が使われていたかなど国立国会図書館で検索したが出てこず、こうした古株の画材メーカーに質問してみるのも手だが、今回そこまで調べませんでした。

*2:河田明久『笑う、転ぶ、叫ぶ、泣く--藤田嗣治と「とっくみ合い」のモティーフ』2006年:http://ci.nii.ac.jp/naid/40007313023

*3:ユリイカ2006年藤田特集号の大塚英志の文章より抜粋。瀬木慎一『書かれざる美術史』に紹介されているようです。http://www.gei-shin.co.jp/comunity/24/14.html より「藤田は『アッツ島玉砕』を制作中の昭和十八年八月十九日に、木村荘八に手紙を送っている。その手紙が瀬木慎一の『書かれざる美術史』(芸術新聞社)で紹介されている。」

*4:鴻英良『藤田嗣治の疑惑』2006年:http://ci.nii.ac.jp/naid/40007313020

*5:市川慎一『メキシコと日本人画家--Diego Riveraと藤田嗣治』(2005)より抜粋:http://ci.nii.ac.jp/naid/40006934430

*6:藤田嗣治『メキシコを顧みて』1934年 市川慎一『メキシコと日本人画家--Diego Riveraと藤田嗣治』(2005)より抜粋:http://ci.nii.ac.jp/naid/40006934430

*7:佐野勝也 博士論文2013年  p124-125 :https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44411/1/Gaiyo-6385.pdf