蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

歴史画はなぜ叩かれるのか

 のっけからこのタイトルだが、少なくとも20世紀半ばからこっち、具象のリアリズム手法で絵画やるとか、さらに歴史画をやるとか言うと
「今更そこになんの可能性が残っていると思ってるの?」
といった反応を受けるのは日常茶飯事で、私は機会を捉えてはこうして各方面に向けてエクスキューズを提示するのは、私のアーティスト人生においても大変意義深く大事な営みになっている。また、具象を描いて活動すること自体の前衛では無い「後衛性」に、何らかな理由が求められるようになったのも、コンセプチュアルアート以降の流れでもある。

20世紀モダンアートの戦略として規定されるイリュージョン絵画について

グリーンバーグ批評選集

グリーンバーグ批評選集

芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界

芸術の終焉のあと: 現代芸術と歴史の境界

 個展『二月革命』開催が9月で、迫ってきて、改めてグリーンバーグや特に19世紀ロマン派の美術家を批判する論評などを選んで読んでいったのだが、

  • 21世紀からの今後に、具象で古典技法でリアリズムで歴史画絵画を描くこと
自体を、「これは今はもはやアートとは言えない」といったような、アートとして否定するほどの端的な理屈は見つからなかった。「形式主義の美術批評」から私が今後どう批判されるのかシミュレーションをしておきたかったのだが。そこで「絵画の終焉」というと、どうも、19世紀のナショナリズムの勃興の時代から20世紀の冷戦時代にかけての社会状況を背負った限定的な話になってると感じた。社会状況の違う今、グリーンバーグらの絵画批判の手法がどう現代作品に当てはめられるのか、私の知識経験不足のためかよく分からないところがある。「絵画の終焉」の言説は、西欧絵画のことを述べているのだが、例えば東アジアの絵画については眼中に入ってないのだろうが、そこは今、どう説明されるのか、気になるところだ。確かに、20世紀前半のモダンアートのメディア(樹脂油やアラビアゴムなどの媒剤や麻布キャンバス、紙といった媒体を含む言い方)のメディアたる素を前面に出した戦略を位置づけ語るときに、対照的なものとして「平滑に描かれたリアリズムの油彩」を挙げることは、大変理に適っている。
「リアリズムでイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠すために技巧を用いてメディアを隠してきた」と糾弾する時の、この「技巧を隠す技巧」というのは元は古代ローマの名言からの引用らしいが、形式主義の絵画批判においては、

  • 筆致は極力残さないように、盛り上げず平滑に塗って、(どう仕上げるかは、同じ油彩でも媒剤の調合や基底材の下塗りの仕方などが異なるのだが)
  • 写実的に描く油彩技法

についての言葉になっているが(ここからイリュージョニズムという言葉が出てくる)、だからそのタイプの油彩画というのに限定された話なのか。「イリュージョニズム絵画」に対する形式主義による批判に適合しない古典作品は、ざっくりとしたハッチングで描かれる版画にしろ、ベラスケスやレンブラントetc.の特徴、東アジア他の絵画など、いくらでもマッチしない事例があがってくる。20世紀のモダンアートの戦略から遡求的に、絵画の「イリュージョニズム」を位置づけているが、範囲の定まった中の話で、モダンアートの戦略を地固めするがために見える。

ベラスケス、1651-54年「王女マリア・テレサの肖像」の部分アップ、メトロポリタン美術館サイトより
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レンブラント、1632年「オリエンタルな衣装を着た男」の部分アップ、メトロポリタン美術館サイトより
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『さらに新たなるラオコーンに向かって』では、ロマン派以降の絵画のメディウム(ここは樹脂油や調合油のこと)の役割を抑えられるようになったとあるけど、それはロマン派ではなくて、印象派が一通り過ぎ去って以降の具象絵画(典型としてサルバドール・ダリ)の手法ではないかと疑問を持った。
ダリ、1936年:茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)


 さらに言えば、私は今回の読書で初めて気が付いたのだが、かの有名な評論『アヴァンギャルドキッチュ』の一番最後に、グリーンバーグによる追記があって、

私は愕然としているのだが、これが印刷されてより数年後にレーピンが戦場の場面を一度も描いたことがないことを知った。彼はそのような種類の画家ではなかったのである。私は、他の誰かの絵を彼のものだと考えていたのだ。そのことは、19世紀のロシア芸術に関する私の偏狭さを示していた。(1972年)

とある。こうした勘違いからも、彼ら(敢えて複数形)は、たくさんの鑑賞経験を積むことなく印象派以前の西欧絵画というものについての漠然とした印象で批判対象に挙げてるのではないかと、私は前々から穿ってみている。『アヴァンギャルドキッチュ』でのレーピン批判を読むたび、ちゃんと実物鑑賞したわけじゃなさそうだと思ってきたが、案の定だった。リアリズムと一口に言っても、色んなタイプ、特徴、手法があるものだが、素材、まあメディウムと言ってもいいけど、に対する注意深さや過程は、彼らの存外に形式主義のモダンアートとそう違わないことかもしれない。
 それと、この形式主義の批評と、作品の、現実にあるものへの様々な考証の正誤とか観察のありようとか、そういったことは全て今後の絵画に必要なものではないと考えているから、あっさり切り捨てるのだろうか?とりあえずグリーンバーグが「文学の絵画や詩への侵食」を忌み嫌った理由は、19世紀文学のどこら辺にあるのか、目星がよく分からないでいる。フランス語の有名な古典詩を引き合いに出されてもそこにアクセス出来ないところで、「ああこれが、世に言う芸術教養の壁というやつか」と改めて思ったりする。ともかく、グリーンバーグが絵画の「不純さ」として、他のメディア(ここでは媒体やジャンルのこと)から借用した折衷主義と述べているが、その場合も、他のどんなジャンルの芸術もそうであるはずだ。純化された芸術として音楽を挙げられているが、音楽にせよ鳥の鳴き声だったり光が差す様子だったり水の流れだったり、そうした何かを模すということは行われている。
 しかし、再現つまりリアリズムというのが描法ではなく、思想や何らかな政治思想の「単に再現しようとするための絵画」を忌み嫌っていたという点では、私にとっても理解できるものではある。
 

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美術にぶるっ!:戦後のコーナー「実験場1950s」も見応えあって楽しかった。一番最初に、原爆の衝撃と治安維持法下の芸術家の敗北感みたいなところで切り取って見せる。それから、砂川闘争や労働組合活動といった左翼系の流れ、古代日本のルーツへの関心の高まり、日本の民俗的な再発見の流れなど
0:05 - 2013年1月15日

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美術にぶるっ!:特に、砂川闘争にや労組協調路線の展示は力入れてたような気はする。こういう左翼系芸術ムーブメントってもう今後はあり得ないんだなあ、というのを改めてしみじみと思う。芸術家会報の展示でも、当時のアジ文ではよくこんな内容で人を動員できたなあ、今との隔絶感が湧いてくる
0:13 - 2013年1月15日

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美術にぶるっ!:まさに「大きな物語があった」とはこのことだ、と実感する。ああしたアジテーターが、現在もう全く通用しないし人の動員にも役に立たない状況なのだが、このエートスwの変わり様はなんだろーとしみじみと思うなり
0:17 - 2013年1月15日

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情報量の違いや、何だかんだでテクノロジーの影響が大きい気もするRT @awajiya: @YOW_ わかる気がします「大きな物語」って,いまの思想文脈の用語でイメージされるような堅固で精緻なもんじゃなく,ひどく粗雑で大味なもので,だけど多くの人がそれに魅せられた.という(…
0:28 - 2013年1月15日

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大きな物語は終わったと言いつつ未だ傾向は全然あると思いますRT @awajiya: YOW_それはすんなりとは納得出来ないけどw 今の情報技術は少量生産少量消費に「も」向くから,「大きい」ことのメリットが相対的に減ってる.けど「大きい物語」に魅かれる性向が変わったわけじゃない
0:34 - 2013年1月15日

【追記】
政治的テーマ以外にグリーンバーグらが「意味過多」の絵を嫌ったもう一つの理由は、シュルレアリスムへの反発もあるかと。

ナショナリズムと芸術カテゴリーとサブカルチャー

歴史画について、以前にも何度か調べて書いてみる機会があった。
yow.hatenadiary.jp
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私は自分の作品を構想するにあたって、過去の戦争画や歴史画を目指してるわけではない。さじ加減として、どの程度ケレン味を出すべきか(スペクタクルさ)といった手がかりにすることもある。私も、高校大学と美術史は教わってる以上に、10代の時から政治思想史の本を読むのが好きだったので、歴史画の啓蒙主義とかナショナリズムを人民に認識させる役割だとか、当時としては当然であったオリエンタリズムに対する現代の批判であったり、アカデミズムの啓蒙主義と対抗するロマン派勢とのマッチポンプ関係のダイナミズムであったり、そういった基礎知識はあるし、何よりナショナリズムと表現の問題については、昔から関心を持ってきたことだ。
 「アカデミズムの啓蒙主義と対抗するロマン派勢とのマッチポンプ関係のダイナミズム」に関しては、あまりに広範で専門的で、私はここで軽く展開する自信はもたない。
 ここで何が言いたいかというと、よく言われる、19世紀のロマン派絵画や社会主義リアリズムや現代の戦争画の類に対する批判は、ごもっともなんだけど、私はまずナショナリストではないし、オリエンタリズムとかノスタルジーとか様々な注意を予めやってるし、プロパガンダ的な表現はやらないことにしているし、その上で、物語性のある歴史画を具象表現で古典技法で描くこと自体について、批判あるとしたら何があるのだろうか、今や制作方法やメディア(媒体)の問題ではなくなったのだ。グリーンバーグらも当時そこまで想定してはいなかったろう。私は以前、絵画という「メディア」ゆえに藤田嗣治を戦争協力に至らしめた、という奇妙な批判を言われたことがある。ところが昨今では、ナショナリズムへの素朴な傾倒表現は、絵画やハイカルチャーの世界から、漫画、世界的潮流でヒップホップ、POPソングといったサブカルチャーの世界に移ったように、さまざまな迷作が散見されるようになった。ゆずやRADWIMPSの例が新しい。20世紀、映画も音楽も舞踊でも戦争協力はあったわけで、前衛芸術においてはこれは学生の時集中的に調べた対象だったが、ファシズムの文化を担った未来派という総合芸術の前衛グループが例にあるわけで、芸術のカテゴリーで何か政治的内容の方向性を規定するのは、ただの事実誤認である。

ファインアートの課題

 現代は、エンターテイメントやサブカルチャーと、ファイン・アートを端的に区別することには意味も無くなっているが、一つファイン・アートの方のみ課されているものがあると私が考えてるのは、自分の欲望等について充分に自己分析的があるかどうかという点で、エンターテイメントでの表現においては秀作であるためにはそれが必ずしも無くてはならないものでもなく、しかしファイン・アートとなると、少なくとも(戦後の、公民権運動以降の、)先進国で活動するなら、自分の欲望のありようや好悪、社会観、政治的指向について、所与とせずそれなりに分析を深めたり、関連する学説や創作物、それらの成立したプロセスについてインプットした積み重ねがあるかどうかが、少なくとも私にとっては大きな評価ポイントになっている。これは一つの例だが、あるアーティストで、よく「自分はロリコンだから」と自己規定して済ます人がいて、そのロリコンという指向、嗜好を所与のものとして単純に考えているわけだ。その一方で、現代アートの世界では往往にして、キュレーターも作家も、ステートメント等で現代思想用語を散りばめてあっても、その思想用語と書いた人の認識や制作物の技術面等がどうも釣り合っていないことがままある。情報量の多い少ないが作品の優劣ではないが、インプットしたことを取捨選択して表現に昇華するのは、技術の問題も大きい。絵画では具象でも抽象でも、ことの外、技術に則った表現力が重要な芸術カテゴリーだと思ってる。

最後におまけ・団体公募展系のこと

 かつてアカデミズムで「このモチーフやこの主題はこう描くべきだ」と規範化されていたことへの反発の意図であることは理解するが、音楽や舞踏といった他の芸術とは違って、美術ではもはやアカデミズムは世界的に廃れ、「絵画はこう描け」といった規範は存在しないのだが、未だ、20世紀モダンアートの批判の手法で自分が批判されると、妙な感じはいつもある。

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

芸術崇拝の思想―政教分離とヨーロッパの新しい神

『芸術崇拝の思想』では、国や自治体による栄典や顕彰制度が過去の文化を豊かに見せるだけだとの批判が展開され、それは繰り返し近代思想史なんかの本でも読んできた話であるが、現在も負の影響力が『芸術崇拝の思想』で危惧するほど大きいのかどうか、特に何か調査に沿って著者は危機を述べてるわけでもなかったりする。日本の団体公募展系のことで言えば、例えば叙勲の選抜が団体公募展系に傾いてる状況はあり、叙勲の選抜を公平にしよう、否それよりも叙勲制度を廃止して他の文化事業に予算振り分けようという政治主張もあっても良いんだけれども、活動として発展させる元となる調査が提示されない限り、なかなか優先順位は上がってこないんではないか。少なくとも、団体公募展系は今後も「我が社の会議室の装飾に」といった一定の需要はあり続けるだろうが、私は美術のアカデミズムは、音楽や舞踏の世界に比較すれば、ほぼ無いに等しいものとして考えて活動しているが、私の存外に影響力を今でも高く見積もってる人も結構いたりしたので、何らかな具体的調査がなければ何とも言えない。私の生活圏で何も感じない可能性としては、京都精華大デザイン学部という、団体系とは縁の無いところを卒業して、あとは独学でやってきたのもあるかもしれない。