蠅の女王

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芸術は爆縮だ! -「絵画は死んだ」への画家小倉の返し

このフレーズ気に入ってまして、いつも使わせて頂いておりますありがとうございます



音楽界と違ってアート界には主流も傍流もとっくに無えよ

 今日もしばれるのう。もそっと寄って火にあたれや。
 先日東京での地域アートとアーティストの関わりについてのシンポジウムに行ってきた時の話をしよう。普段、自分が構築したアートクラスタ薄めのTwitterタイムラインでキャッキャしてるもんだから、たまに下界へ出て現代アートクラスタに直接会うと、オーソドックスな技法での具象絵画で制作していることを自己紹介すると、
「美大教育粉砕、制度化された◯◯粉砕!俺たちは過去のやり方に縛られずカウンターアート張っていくぞー!」
とばかりに敵愾心のようなものや不振な目を向けられることがあるのを、すっかり忘れてしまうものなのじゃ。逆に、例えば公募展系の作家に出会うと、私が無所属であることや
「誰が買うんだ、こんな重たいグチャグチャと小煩いテーマのいわくつきの絵を。ギャラリーも迷惑してるんじゃないか」
と訝しがられる。アート界というのはそういうものじゃよ。で、その件のシンポの懇親会にて、私はある作家らに「絵画はもはやアートじゃない」とdisられたのじゃ。もう紹興酒片手にラップバトル状態になったのじゃ。あらかじめ断っておくと、私としては、皆が等しく絵画作品を貴重なこわれものとして丁重に扱ってさえくれれば、「実は興味持てないんだよねえ」と言われても、別段怒るようなことでもない。だから今回は他人に絵画への興味持たせることが目的ではない。昨年見かけたあるアート批評家による気になる記事があって、それと一緒に、ここで考えて書き出してみようということだ。

貴族が跋扈した時代

 導入に、80年代の進歩的知識人らによる引用と話からしよう。80年代後半から日本は世界第二位の経済大国となり一般市民にも「景気が良くなった」との実感が広まってった頃、日本では「ジャパンアズアナンバーワン!わしら新人類!新しい時代の夜明けぜよ!」という気運に満ちていた時、こんな本が人気があったのじゃ。

EV.Cafe  超進化論 (講談社文庫)

EV.Cafe 超進化論 (講談社文庫)

蓮實重彦:映画史っていうのは、簡単に言ってしまえば、グリフィスがつくって、ゴダールが殺した、これで終わっちゃうわけです。ま、ゴダールが脱構築したといえばもっと分りやすいという話ですよね(笑)。
 ところが、その間に凡庸さって問題がある。社会の普通の顔としての凡庸さって言うのがあって、その人たちはゴダールに殺されても一向にいたまない。ゴダールの脱構築性を特権視すると、結局その人たちが生き延びちゃうわけですよ。ゴダールによって殺されるのは、対話可能であるが故に傷つく最良の部分になるわけです。僕はその両方を生かしておきたい……といっても、ゴダールとグリフィスの両方を肯定することで、現状をあいまいにしてしまうことじゃあなくて、両方がたえず緊張関係にある状態をうみだしたいんです。ゴダールによって殺されていたにもかかわらず、自分が死んだってことを知らないで撮り続けているような人たち—例えば深作欣二でもだれでもいいですけど(笑)、そこらへんの人たちを批評し得る唯一の根拠は、ゴダールおよびグリフィスを両方自分の中に取り込むことだというふうに思うんですよね。
坂本龍一:凡庸さというのは、その二人を両極においた中間項の凡庸さっていうことですね。
蓮實:ええ。ゴダールの映画が好きだということは、例えばマキノ雅裕の映画が嫌いだということの同義語にはならないということを考えるわけですね。
坂本:映画自体の固有の快楽という、そういうことなのかしら。
蓮實:いや。どうしたって矛盾であるわけですよ。ゴダールが好きだったら、マキノ雅裕のように本当に技術だけでたたきあげてきた人の、一種演歌に近い世界みたいなものはゴダールとともに殺されなきゃいけないはずなんだけれども、僕は、そのようなゴダールの挑発にはあえて乗らないっていう立場をとりたい。
村上龍:ああ……。
蓮實:それはゴダールの問題であるかも知れないけど、僕の問題ではないという気がする。みんなゴダールと同じように考えようとするのが凡庸さの表れでね(笑)。

p269-270より

 80年代後半当時の典型的な批評言説としてここで挙げてみた。浅田彰さんもこんな調子だったべな。昨今の、SNSで流れてくるアート批評家KYさんとかはじめ、アート界隈の罵倒芸はだいたい、この頃の亜流の使い回しの燃えカスを掃いた後のシミみたいに見える。
 蓮實さんがこの鼎談で言ってた意味は、私にも分るっちゃあ分る。内輪相手じゃなくてもっと世の中の新しい動きとか思想とかに興味無いんですか、撮影技術ももはや大したことなくなってるけど、技術以前に・・・・とか。
 美術の世界に引き寄せて考えると、その最果てにあるのはてきとうな裸婦像とか情弱な金持ち相手のの画廊とか、そういうことでしょ。はいはい分ってますよー。
 蓮實さん自体の人文学等での評価は私はあまり知らないので横に置いておいて、蓮實重彦という人は少なくとも、映画の黎明期から現代作品まで膨大な数を鑑賞をして知見を貯えてきている、高い専門性を備えた無二の批評家であり、同じくお仲間の淀川長治さんからは「黒髭男爵」と渾名されてたわけだが、どなたかが仰ってたが、蓮實さんみたいな貴族の真似を貧相な知見の人がしちゃ、目も当てられないんですよ。蓮見さんや浅田さんやフランス現代思想みたいに「◯◯によって××は殺された」「××はもう死んでいる」宣言なんて、言える玉かっつう(誰とは言わない)


 あとはキチンと説明書くのはホントに私には大変だから、この本でも読んで欲しい(省力)

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 それと、アート界のスターダム?有名性の疑問が話題に出たのだったが、これは経済学など様々な分野でそれぞれの研究があるだろう。私が知ってる社会学の先生で南後由和さんと言う方がそのものずばり「有名性」の研究論文を書いておられてた。加島卓さんも、そうここで紹介して良いのかしらん、直接お話まだお伺いしてなくて、すみません。
文化人とは何か?

文化人とは何か?

 あと、これ、ゴッホは何故死後に歴史上の芸術家になったかということを調査した芸術社会学の有名な本
ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

 それのパロじゃないけど、藤田嗣治について書かれた論文読んで私が書いたの。
『藤田嗣治のパリ時代のサクセス -FoujitaはなぜFoujitaになったか』:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20160312/p1


 自分等が「世の中にはなんでこんな現象があるのかなあ」と不思議に思うことにはだいたい、既に学術研究というものがあるもので、そういうところをあたって頂きたい。

去年読んだあるアート批評家の記事より


https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24.phpより引用

絵画や写真が、単独で3次元以上のメディアに匹敵する芸術的効果を生み出すのは、現代では容易ではない。もしかすると、絵画や写真をあえて現代アートに含める必要はないのかもしれない。

 既視感ある言葉。
 まず、横浜トリエンナーレとかそういう場所での大規模展示での鑑賞形態について、そんなに過大評価されても、という。確かに横トリみたいなアートイベントには、絵画も写真も鑑賞には向かんよ?とてもじゃないけど、ジェフ・クーンズ(印刷)や蔡國強(火薬仕込んだ導線で描く)さんみたいなことでもやらんと、空間が埋まらないもんねえ。だから会田さんなんかは段ボールで作ったり、布にフレーズ書いて垂れ幕にしたり、チープ路線ひた走ってるよねえ。段ボール使うことに省力以外の特に強い意味は本当にあるのかねえ。「何かやって下さい」と受注受けたらやれる範囲でやるしかないだろうし、構想と制作に何年もかけてらんないでしょうしねえ。

https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24_2.php
平面作品を相対化する敵はアートワールドの外にはない。敵は内部に存在する。絵画や写真以外の、映像、インスタレーション、パフォーマンスアートなど。2次元の静止画像に比べ、情報量が圧倒的に多い作品群である。映像には時間という次元が、インスタレーションには空間という次元が、パフォーマンスには両方の次元が加わっている。その意味で前2者は3次元作品であり、パフォーマンスは4次元作品と言える。
伝統的には彫刻を立体作品と呼ぶ。立体はもちろん3次元であり、彫刻はだから3次元作品ではあるけれど、今日において情報量の少なさは隠すべくもない。とはいえ、例えばクーンズ、村上、ハーストらの立体には重層的なレイヤーがある。素材のバラエティと相俟って、観客の知的好奇心と想像力を刺激する。2次元静止メディアの平面作品よりも、確かに1次元分、情報量は多い。

 こんな説明で説得されるアートワールドの人がもしもいたら、頭痛い。少なくとも、私がやっていることは情報量やコンセプチュアルさではそこいらのインスタレーション作家に全く負ける気がしねえ。あの「五百羅漢」なんてツッコミどころしか無いだろ。何が1次元情報が少ないだ、11次元宇宙にでも行け。大人しく作品と向き合って鑑賞することがそんなに耐えられないお子ちゃまなのか。遊園地のアトラクションにでも乗ってろ。あ、昔、舞台は記録にほとんど残せないから映画芸術よりも劣る、と評してたのが村上龍で、それから30年後の現在、伝統芸能の良さを発信する本を出版するという180度の転向をしたけど、まあどうでも良いんだけど。あれだ、数式や言葉のみによる表現だってある意味、視覚表現よりも情報量は多いわな。

芸術は爆縮だ

 そういうことなんです。色んな知識の収集と経験とを積み重ね試行錯誤し、それを取捨選択して画面上に凝集させられたのが、絵画や写真や書や映画における秀作になるのです。
 芸術批評において、インスタや現代アートの映像やパフォーマンスアートに関しては、芸術の専門家でなくても社会学やその他様々な分野から参画可能なのだで、なんとなく補充が利いてしまう。一方で、例えばフィルムによる撮影技術重視の映画や写真や絵画への芸術批評なんかは、他分野からの代替が利きにくいところがある。媒体についての知識をある程度要するのだ。といって、絵画、写真、撮影技術重視の映画の方がインスタや映像作品等より優れてる、という話をしてるわけではない。媒体の優劣のことかと、話の意味を取り違えないように。
 絵画というオーソドックスな表現手法を私が採っていることについては、色々理由は挙げられるが、ひとつには、数々の王道を往った学者から学んできたことが私には大きかったから、というのがある。その前に私にだって色々迷走があったわけです。ある人の言葉で、「キリスト教の権威を批判するなら誰よりも神学を修めなくてはならない」という意味の言葉があって、ほぼ私の座右の銘みたいなもんだが、王道や正統をもし批評的に捉えたいのなら、やはり自分も王道をマスターせよ。

スマートなステートメントを書きたいなら「科学的用語の濫用」問題というのを一回ググってみたまえ

 有名なソーカル事件、ソーカル・ショックのことだが、アート界での作品のステートメントやアーティストトークにおける、己が言葉の単なる箔付けと権威付けのための無闇な政治風味な用語や思想用語の濫用について、もしやる気があるなら考え直されたし。


 同じ芸術でも、映画や小説や漫画や音楽では、言葉に対してもうるさいし批評が盛んなのに、なんでアート界隈では無風状態なんでしょうね。たまにあっても上のような頓珍漢なものしか出てこないし。作家は作家で、馬鹿無双的な態度とりやがるし。あらゆる芸術の世界の中でも、アートって、言葉に対する無頓着さでは格別ですよね。ということで、私は図書館へ美術批評家を発掘する旅に出ます。