蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

ルイス・ブニュエル『河と死』『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の何処にも依らない「存在しないメキシコ」

 今回はブニュエル作品の中ではあまり知られてない『河と死』と、最近公開だった『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を併せて取り上げます。

 この『皆殺しの天使』や『欲望』シリーズと比較すると『河と死』は、作品の本意が伝わりにくく出来てる。「分かりにくい」と言っても前衛映画でもない。平たく言ったら「抗争劇」ドラマ。
 ただ内容に、先駆的なところがあったので、取り上げてみたい。これを観た時、ちょうど『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』が公開されて観てきた。この2作を並べることで、『河と死』の本意が伝わりやすくなる。

知らないメキシコ

 既に宮台真司氏もブログ等で言うてたことだけど(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=336)、「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では、
『河と死』でのヒメネスいう村と同じく、メキシコいう国自体が「存在してない処」として描かれてる。『河と死』も、メキシコの何とか州のとある田舎町を舞台にして、一見郷土色豊かに描かれている。どちらの映画もそこは「存在しないメキシコ」だ。町の民族色のあるお祭りや葬式の場面を見てても、実際そんなものなのか、分からない。

 『河と死』の場合そう疑わせるのは、最初は非常に同じメキシコでも都市部での近代的な病院のシーンから始まるからだ。


 何か疑いだすとメキシコをよく知らない私も、『ライジング・サン』(フィリップ・カウフマン監督)や『SAYURI』(ロブ・マーシャル監督)などを観た時の落ち着かなさを覚える。そう言えば、寺山修司さらば箱舟 [DVD]』(1984年)もこん「存在しない町」の「存在しない掟」を描いた映画だったと、今ふと思った。


 『河と死』『メルキアデス・エストラーダ〜』は、オリエンタリズムを経由したメキシコ、というのでもなかった。『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』のメキシコは、入国の「法」を通して見る「メキシコ」みたいな。作中の不法入国者も、メキシコの知らない町も、あれは実は「存在しないメキシコ(人)」だった。唯一国境の越境への法によるしばりだけが確かにある、と。そこを超えて不法入国してくるメキシコ女性たちは、非常に魅力的にも描かれている。

 『メルキアデス〜』で描かれるテキサスの国境沿いの町は、住んでると鬱になりそうな寒々しい町だった。メキシコ美女を追い求めて“あっち側”へ越境したがる者がいます、とするとなると、これはたちまちオリエンタリズムに至る。少なくとも、監督トミー・リー・ジョーンズは、“こっち側”の現実世界が充分素晴らしいから、“こっち側”の人間が“あっち側”に行こうとしない、としてるわけでは、なかった。ひとつにはオリエンタリズムを避けようとしてたんだと思う。
「何故“こっち側”から“あっち側”には行かないものなのか」もう少しつっこんで考えられるはずだけど、今なんか、他にもありそうだね。

『河と死』は観る者の感情移入を出来なくしている

 ブニュエルの『河と死』は、『メルキアデス〜』と同じように「法」のしばり・舞台となるある町の掟や因習が映画の要になってる。これが、実際にあった法や因習を参照してるわけでもないと。だから、観てても「いまいちわけの分らん処やなあ」となる。あえて言えば「まるで中世のような、しきたりの支配する世界」となる。そしてもう一つ共通してるのが、メルキアデス〜ではアメリカと未知のメキシコとの対比、『河と死』では都市部の近代化された病院と主人公の故郷の町との対比のされ方。
 

 この町の因習といっても、前後の言動のつじつまとか合ってないところが出てくる。つじつまが通らなくなるように、わざわざ作られてる。『皆殺しの天使』のレビューの時、そんなブニュエルのやり口について詳しく書いてきましたけど。
 この『河と死』での「メキシコのとある町」では、人々は何かとすぐに血統をする。決闘するんが町の因習なんか掟なんだか、よう分らんのだけど。一般的に考えて(笑)「決闘」というものには何らかなローカルな掟?があるはずなんだが、それが最後まで提示されない。だから決闘状態が掟になり、法に成り代わってるのだ。
 道ばたで親しい人同士がすれ違いで挨拶する場面において、

「今夜、家に来ないか?」
「はい伺います、お宅のお嬢さんに殺されるのでなければww」
「あんたも今日一日、面倒起こさないように過ごしてねww ではでは〜」
などと、大阪弁の「儲かりまっか」「ボチボチでんなあ」レベルの挨拶が交わされる。それくらい、決闘が日常化しちゃってる町なのだ。その度に敗れた死人が出るのだが、河向こうの墓地まで、舟で運んで埋葬されることになっている。河向こうは昔、古い町があったけど大洪水に呑まれて滅んでしまい、墓地だけが当時のまま残っていて、今もそこを埋葬に利用することで、消滅した古い町の記憶を伝えようとしている、いうことなんだけど。

 決闘の掟も一見ありそうで、どこか破綻している。


 この映画では、「早とちり」というのが、<法>のからくりの作動するトリガーとなっており、本当は大した動機らしいものもない。そんな決闘のきっかけとなる場面、またまた、今回も並べてみると

  1. ある家の赤ん坊の誕生パーティにて。名付け親となった男が「今度はオレが女の子を作ることにしようか。どこかの人妻でも誘惑して産んでもらおかな〜」と笑かしで言った途端、それまで和やかに話してた赤ん坊の父親が、「なにぃ!? おれの女房を寝取ると言うのかっ!」と急にキレて、即、ナイフで名付け親の男を刺し殺してしまう。
  2. 親の世代が決闘によって殺された怨みがあるとして、メンチャカ家の男たちはアンギアノ家の男を追い回している。でも決闘って、本来、どちらが負けても恨みっこ無しという前提で戦う制度だったのではないのか?これでは、決闘のルール設定も、あったものではない。また、親世代の決闘の原因は、特に明示されないのでワケ分らず。
  3. フェリペ・アンギアノは町を出て都市で医者として働いている。彼の美しい母が、「わたしは父なし子のお前(妊娠中に決闘で恋人が死んだから)を生んだことで、そしりを受けている」から、「母の雪辱をそそぎにお前は帰ってくるべきなのだ(つまりメンチャカ一族と一発決闘やってくれ)」という手紙を送りつける。しかも息子の病気入院中に! そこで息子がいい加減呆れて故郷に帰ってみると、一変して母は「決闘なんてしてはだめ」と止めだす。とにかく、この映画の人物の言動のつじつまは、もはや“わざと”合わされていないのだ。

   などなど


 決闘の場面は幾つも幾つも出てくるの。どれもこれもズレまくってて、任侠映画などのように観る人の感情を揺さぶるようで揺さぶることはない。抗争や決闘に至ってしまう必然性のお膳立てがないから。ドラマトゥルギーを追おうとしてると、この映画の一番肝心なものが見えなくなってしまう。


 よくこんなアイディア・作り方で映画撮ったなあ、と妙に感心してしまう。当時でも、内容をきちんと理解しようとして観てくれる人は、ほとんど居なかったんじゃなかろうかて思っちゃうんですけど。