個展告知:タイトルは『マッカーサーの子供たち』その内容について。-東京で来週22日から27日まで開催
個展の宣伝としては随分遅まきになってしまった。制作だけで、最後の最後まで能力的にいっぱいいっぱいで、内容を言語化してみる作業を、難しく考えて避けていたところがある。今からでもそれをやってみようと思う。とりあえず構想に至った経緯を書いていけば良いのではないか、と考えるようにした。
なぜ「マッカーサー」になったのか
直接のキッカケは2008年に描いたこのペン画から始まる。
言うまでもなく、マッカーサーが米大使館公邸に昭和天皇を招いて撮った有名な2ショットを基にしている。この歴史的な2ショット写真を、雑誌か何かで何気なく見ていて、ふと「これを絵にしたら面白い」と閃いて、描いたのだった。この時の閃きはただ直感とか単なる思いつきだった。ヤンキーのラッパーと日本のオタクの2ショットにしようかとか、他のイメージもこの時にはあったが、ラノベ世界での「美少女天皇」ならぬ、「美少年天皇」として描く事にした。当時、構想から制作のいきさつをダイアリーに書き残している。
http://d.hatena.ne.jp/YOW/20080117/p1。
私はこの絵をとても気に入った。
で、それからまた1年が過ぎて。
2009年の冬に大阪のNAMURAであるアートイベントに行った。イベント後の懇親会で、あるキュレーターの方に挨拶をした際に「私、今度マッカーサーのテーマで作品展やりたいと思ってるんですよ」と、これまた単なるハッタリでポロッと口に出して、自分でも内心驚いていた。
言ってみてから「ああ、そうか、自分がやりたいのはこれだ」と思い至った。その時のハッタリも、やはり何か直感が降りたから、というわけだ。
その懇親会の前、イベントでキュレーターの方が「多文化主義」という言葉を頻繁に使っていて、多文化主義について政治哲学の洞察が無い印象だったのだが、そのことで挑戦的な質問をしてみた。会場で目立ちたいが為に。それによる高揚感が、更に懇親会でのハッタリに繋がったのだったと思う。
その以前から、私は、政治思想に興味があって本を読んだりレクチャーに通ったりしていた。その興味から、何か作品を作るようになりたいと思っていた。ただそれは、もちろんプロパガンダでもない、平和とか何かメッセージの為でもない。
今回の作品構想を練る際には、自分に課した掟というのがあって、「戦争画にしてはならない」「昭和ノスタルジーなモチーフに頼ってはならない」と考えていた。楽をしようとすれば戦争画になる・ノスタルジアになる・プロパガンダのようになるのだ、と何故か当初から思っていた。
構想の背景にあったもの
さて、マッカーサーというキーワードだけ自分に降りてきた、このキーワードから何をひねり出そうか、と当初はそういう感じだった。私は、作品を構想する際は、ボトムアップ式ではなく、テーマをトップダウン式に考えていく方が性に合っているようだ。
で、アイディアを練る際いわゆるKJ法を使ったのだが、ネタの素になるアウトラインにあったのは、2009年冬に観に行った押井守舞台『鉄人28号』での「現代の、戦後の忘却がテーマである」というパンフレットでの押井さんによる解説文。この舞台のレビューは、ダイアリーにて書いた。(http://d.hatena.ne.jp/YOW/20090209/p1)
そして、「戦後を忘却」と言えば、小熊英二のベストセラー『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』。
そして、占領時代にマッカーサーに神格化した肖像画を描いて贈った日本人が数多く居たという逸話に表れた、「熱狂ぶり」。
だから、もし個展にコピー文をつけるとしたら、「熱狂と忘却」になるだろう。
「熱狂」に関しては、後に『拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人の手紙 (岩波現代文庫)』という本で見たのだが、それによれば占領時代、マッカーサー宛に推定約50万通の手紙が日本人から送られたのだと言う。実に130人に1人が手紙を送った計算になるらしい。その多数がマッカーサーに好意的な内容であった。今読むと笑ってしまうような珍妙な「戦勝への祝辞」や賛辞の手紙が掲載されている。そしてマッカーサーの肖像画を贈った人数、点数は、はっきり記載されていないが、「少なくない」と本には書かれている。昔、あるテレビ番組でその一つを観た事があって、日本画による掛け軸で、キリストになぞらえた救世主としてのマッカーサー像を描いたという物だった。別段何か政治的な背景をもった人によるのではないことは絵から伝わる。熱狂することと忘却することは実に紙一重だと、その絵を見た時に思ったものだ。
「日本人の描いた神格化されたマッカーサー像」、そして「熱狂と忘却」とを、欲望される美少年天皇(としてのマッカーサー)の像として表そう、と私は考えた。
そして、こうした賛辞と共に、もう一つの「熱狂」というか伝説が、GHQにまつわる事実と妄想も含めた様々な陰謀説の類い。陰謀のシンボルとして脱線して墜落した電車を描き込んだりした。
一番アイディア段階で悩んだのが、降伏文書調印式が行われたミズーリ艦を描く100号の絵だった。式典を見守る連合軍の海軍兵たちが、いたってリラックスした姿勢で笑いを浮かべながら見物している映像が印象的だった。
その様子を、当初は、こういう感じで人物中心に放射状の構図をとることを考えていた。
ただこのままいくと「再現的な絵」になる、という気がして、それをずっと恐れてもいた。再現的な絵というのはつまり、いわゆる「戦争画」のようになっていってしまう、という恐れだった。戦争画のようにしてはならない、と何故か直感的に当初から思っていたのだが、それでも戦争画のイメージから抜けきれないまま数ヶ月を過ごしてしまって、焦りばかりつのった。
「戦争画」から脱する為にこれも直感的だったが、級に広島の国立原爆死没者追悼平和祈念館を見に行こう、と思い立った。国家によるモニュメント的なものから何かヒントが得られる気がしたのだった。その時すでに今年の3月。100号2点の下描きすら出来ていない状態。そしてその旅行が功を奏し、人物を「遺影」に置き換える、という発想に至ったのだった。
国立原爆死没者追悼平和祈念館については、4〜5年前に、小泉首相靖国参拝問題があった時期に出版されて読んだ『新しい追悼施設は必要か』(島薗進氏、 井上順孝氏ほか)という本で初めて知ったのだった。国立原爆死没者追悼平和祈念館は、一人一人の死没者の遺影と共に生前の様子や被爆の状況をデータ化して、アーカイブとして蓄積していくための施設だった。データ・アーカイブだったので、期待していたモニュメントや展示というのではなかったが。
公園によく設置されている平和祈念のブロンズ像の様式というのも、今回のアイディアの基になっている。裸婦や「いたいけな」少女たちが祈りを捧げている、という一定のスタイル。
私の「マッカーサーの子供たち」は何をしているのかと言うと、「祈りを捧げている」。熱狂と忘却とが紙一重になってる、というのを「祈り」の姿とした。
結局、これもあれも直感です、思いついたまででした、として締めるみたいになってしまうのだが、私の教養や言葉の表現力ではこれ以上のレベルで言語化するのはなかなか難しいのでご容赦。
開催場所、開館時間についての告知
今回は、油彩とテンペラの作品を出しています。M100号4点と50号1点と4号4点の出品です。会期中はだいたいギャラリーに詰めていようと思っています。
11月22日月曜日から27日土曜日まで、
場所は、東京都中央区京橋3-5-4 吉井ビルB1Fの「GALLERY b.TOKYO」です。
⇒Googleマップで見る
ギャラリーの開業時間は、
月曜から木曜日まではAM11:00〜PM7:00、
金曜日はAM11:00〜PM:9:00、
土曜日はAM11:00〜PM:5:00
となっています。
遊びにきて下さいね!