蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

医療用帽子とか、抗ガン剤治療中の患者が読む本で、私が買ったモノをさらす。

 


前回記事:『ヘアドネーションと抗ガン剤投与の私


====本日の内容=====


 ●役に立ったおすすめ本
 ●お出かけ用の医療用帽子は、円高もあって海外のハンドメイドのサイトがけっこう良かった
 ●抗ガン剤(CEF療法)2クール目だけど、副作用も抑えられてて、ふつうな近況報告




 最初の抗ガン剤投与からほぼ1ヶ月、だいたいの感じも掴めてきたので、グッズの話とか、治療はどういう感じか、ここで書いておきたいと思います。


情報ノイズを除けるための本


 本屋に行っても、学術書が置いてあるような書店の医学コーナーくらいにしかためになる本は見当たらず、ふつうの書店のにあるガン情報の本と言えば「食事でガンが消える」など、根拠の無い情報や気休めにしかならないもの、かえって有害な類いのものが多いものですが、

がん患者に対するアピアランスケアの手引き 2016年版

がん患者に対するアピアランスケアの手引き 2016年版

 こちらは8月に出たばかりの本。私としては治療中の美容に関してどうしても気になるところでしたんで、そのために即買いしました。

『外見ケアに指針 研究班、医療現場で活用を』

毎日新聞2016年7月27日 20時37分(最終更新 7月28日 01時37分)
http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00m/040/060000c


 国立がん研究センターの研究班は27日、がん治療によって生じる脱毛や皮膚炎など、がん患者の外見の変化をケアする治療法などをまとめた指針を発表した。患者にとって外見にかかわる副作用は大きな苦痛だが、命にかかわらないため十分な対応がされてこなかった。研究班は「全国の医療現場で患者支援に活用してほしい」と訴える。

 指針は医療関係者向けに作られ、「抗がん剤放射線の副作用を治療する方法」と「日常生活での対応」の2部構成。抗がん剤によって生じる皮膚の色素沈着への治療や予防とビタミンCの内服▽抗がん剤治療による皮膚の症状とステロイド外用薬▽抗がん剤治療中の脱毛への対応−−など50項目について、過去の研究データに基づき、6段階の推奨度と解説を掲載した。

 「脱毛後に生えた頭髪を染めてもいいか」など、患者からの質問が多い内容も盛り込んだ。一方、推奨度を決める根拠となる研究データが乏しく、「強い科学的根拠があり強く勧められる」(推奨度A)に該当する項目はなく、「科学的根拠があり勧められる」(推奨度B)も5項目にとどまった。

 抗がん剤は、がん細胞だけでなく正常な細胞にも影響を与えるため、吐き気や脱毛・皮膚の障害、爪の変化などが副作用として表れやすい。放射線治療でも皮膚炎などを起こすことがある。

 同センター中央病院の野沢桂子・アピアランス(外見)支援センター長は「美しくすることが目的ではなく、患者がその人らしく社会とかかわっていけることが外見ケアのゴール。予防や対処法の研究も進んでほしい」と話す。【下桐実雅子】


がん患者の外見ケア指針の項目例
抗がん剤による色素沈着の治療にビタミンC内服は有用か→科学的根拠が乏しいため基本的に勧められない。


放射線治療による皮膚障害への安全なスキンケア方法は→泡を使ってやさしく洗い、すすぎは十分に。「無添加」や「敏感肌用」にこだわる必要はない。


抗がん剤終了後に再び生えた頭髪を染めてよいか→毛染め剤のアレルギーや頭皮の湿疹などがなく、治療前に使用していた毛染め剤を注意深く使うことは否定しない。


▽爪の変形を安全にカバーする方法は→ジェルネイルなど硬化性の樹脂製品は推奨できない。ネイルチップ(つけ爪)を両面テープで接着することは否定しない。

 他、m3.com 臨床ニュース『がんの「アピアランスケア」手引き発行』など参照下さい。

 ここで推したいのが、「何をわざわざしなくても良いか」という情報があるところ。例えば、石鹸やシャンプーや化粧水をこれまで使用してた商品から替えなくても特に良いだろう、というよな。pHのみで肌に優しくなるというエビデンスは無い、とか。これはガン治療中でなくても普段の指南としても有効ですね。あと、肌が一時黒くなるといった副作用についても、その予防効果にはならない医薬品とか、脱毛の予防効果にはならないものとか、紹介されてます。余計な金を使わずに済むわけで、予防は出来ないなら、治療後の整容に金回せば良いというわけですね。
 私も今のところ、顔への化粧水も替えず、ボディーもコンビニ化粧水で保湿したりしてます。ただ、保湿に気合い入れるあまり色んな方法試した群の方が、肌のトラブルを抱えてるという調査項目もあり、ともあれ、普段通りにした方が良いかもしれません。



可愛い医療帽は海外の手作りサイトが充実してた


 CEF療法の場合、99.8%の確率で一旦脱毛があるということで、私ももれなく
1クール目の2週間過ぎた頃に脱毛が始まりました。とりあえず、脱毛期は毛があちこちに散らかるので家用の医療帽を買いますね、それはAmazonで買ったわけですが。

 ちょうど暑い時期にかかるもので、涼しいヤツが要るわけです。これは肌触りも良いし、落ちてしまう髪の毛もちゃんとキャッチしてくれるし、実用性高かったです。
 で、お出かけ用に買ったのが、この2点!




 いずれも海外のハンドメイド作品を売るサイトEtsy(https://www.etsy.com/jp/)に出品されてたもので、円高のため送料(1500円くらい)込みでも安い!最近は日本語にも対応してきています。違う作家さんですが、どちらも縫製はキチンとしていて、布の肌触りも良いです。上の商品の布地は伸縮性があって、襟足のカバー具合では下の商品よりも優れてます。何より一見して医療帽ぽくないし、スマートでクールなデザインで、気に入ってます。後頭部に膨らみのあるデザインの方が、医療帽ぽく見えないかもしれません。
 下の商品は、布地の伸縮性は無いけど上の帽子よりサラッとした肌触りで、より夏向きです。正直、Amazonで買った帽子よりもこちらの方が付け心地が爽やかです。ただ、実際にかぶってみると若干医療帽ぽさはありますw 後頭部にもっと膨らみのついたデザインの商品もあるので、そっちでも良かったかも。ただ、このデザインは飲食店の店員さんなんかが衛生帽として着けても可愛いと思うし、治療後もずっと愛用出来そうです。
 あと、この作家さんはオーダーがあってから製作されてるので、注文〜商品到着まで丸1ヶ月かかりました。手作りサイトでは注文製作の人もいるので、早目に購入しないといけませんね。あと海外サイトなんで、商品到着もだいたい2週間はみた方が良いです。
 他、Etsyで「Scrub hat」「medical hat」で検索すると、様々な商品が出てきます。子供用の医療帽も出品されています。最初は、ムスリム用のヒジャーブ等で探してみようかと思ってここに行き着いたんですが、まあ我々には素直にこうした医療用選んだ方が実用的かもしれませんね。




追記:2017年8月1日記事
『抗ガン剤治療開始から一年、治療終了から8ヶ月。髪もショートヘアに戻り。』http://d.hatena.ne.jp/YOW/20170801/p1

治療の身近況


 私はCEF療法という種類の抗癌剤治療を受けていて、長くて3週間に一回を6クール投与するらしいです。抗ガン剤副作用は個人差が大きいので、一概には何とも言えませんが、私の場合は元々持病も無く健康状態が良く、体力も充分にあったため、薬のダメージもほとんど無く、つつがなく過ごせています。食事の変化もほぼありません。敢えて言えば、食後の甘いもの食べたい欲が無くなったのと、食事量は少し減ったかも。投与して一週間は膨満感と便秘(これは併用薬の副作用)に悩まされますが、焼き肉も中華もラーメンもカレーもピザも食べています。心因性の胃炎は起き易いので、抗鬱剤を精神科で処方してもらってます。これまで、一度も吐かずに済んでます。たまに、薬の負担で疲れが出たのか、無性に眠くなって昼寝だけの日があったりします。
 投与期間中の注意事項としては、白血球の値が減ってしまうため、感染症などに充分気を付けて過ごさなければなりません。ずっと以前から潜んでた歯根の化膿袋(というのか?)が急に腫上がって痛くなった、というよなことはありました(汗)現在歯科医にも通院中。
 先日、はてな匿名ダイアリーに、抗癌剤治療中のお母様について書いた記事が話題になったりしましたが、ガンのステージの重さと治療期間の差はあるのに、私の普段の実感とけっこうシンクロしてるなと思いました。

母親に結構な金が注ぎ込まれてる
http://anond.hatelabo.jp/20160823232626


なお、ちょっと話は変わるのだが、素人ながらに母親とその周辺にいるガン仲間をみていると、
今のところガンに特効薬は無いのだが、


1 日ごろから「ガン以外」は健康であること
2 食生活がちゃんとしていること


が、かなり大事なのだろうなと感じさせられる。
大体、ガン以外に持病があったり、肥満だったりする人は、正直、ガンになってからの生存年数が短いようだ。
治療には体に負担がかかるので、「健康(ガン以外)」でないと絶えられないものらしい。<中略>
幸いにして母は、患う前、年齢の割には健康診断の星が格段に少ない人であった。
あと、やっぱり食事が偏った人や、食欲が無くなった人は、どんどん衰弱していく。

 このタイトル、誤解されそうで何とかならないかという気もしないでもないですが、健康保険の話でもあるということで。私も国民皆保険制度が無い国に生まれていたら、とうに治療なんて諦めてただろうと、常々思っているところです。

 何度も言うように、副作用については個人差でして、このお母様のように周りの方が余計な心労をかけないようにいたわってあげられているか、また仕事によってはストレス受けざるを得ないこともあるでしょうから、私は今は余計な心労を自分で遠ざけられる生活を送れていて、ほんとに恵まれているだけかもしれません。友達からも温かい手紙を頂いたり、気兼ねなくお誘いを頂いて、それも大きな支えになっています。


 治療が始まる前に、『【精巣ガン】クリスマスにきんたま取ってみた』『精巣ガンのライターが、精巣ガンのマンガ家に会ってきた』という記事が流れてきて、このマンガも読んでみたのですが、

さよならタマちゃん (イブニングKC)

さよならタマちゃん (イブニングKC)

 抗ガン剤の種類や病状によっては、やはりキツい治療がまだあるようで、今後も医薬品開発等で改善されていくことを願います。治療開始直前の私にはかなり精神的に堪える内容でしたが(涙目w)、とても良い作品でした。
 病院で、抗癌剤の種類が決まるとその精神的ケアのためのスタッフがついてくれるんですが、このマンガを見せたら、


「うあー、この抗ガン剤は今でも確かにキツいわ・・・・これ読んじゃったのね・・・・」


「ここに出てくる後遺症は、CEF治療の場合は心配しなくて良いですよ」


と言われましたw

 抗癌剤治療にも色んな種類がある、ということはまず世間的に知られていないだろうし、私自身も知らなかったです。


 最後に、また私の作ったまとめを貼っておきます。ここを読んで下さった方々には、くれぐれも誤った治療選択をなさらないように、切に願います。


ガン代替療法とガン放置推奨論への批判記事や批判してる人の意見の収集してみた


ではでは。

ヘアドネーションと抗ガン剤投与の私



『皆殺しの天使』テンペラ油彩の混合技法 次回個展「二月革命」シリーズ


〜〜〜〜今回の内容〜〜〜〜


● わたくし、これから抗ガン剤治療を受けますヽ(lll´Д`)ノ
● 大阪のとあるヘアドネーション賛同美容室にて
● ガンの代替療法の選択は、死亡遊戯です


 えーー突然ですが、8月から4〜6ヶ月の間、抗ガン剤を投与することになりまして。今回の薬では投与始めると2〜3週間で全ての体毛が抜けることになりますんで(脱毛は薬の種類によりけり)、小児ガン治療等で髪を失った18歳以下の人対象のNPOボランティアへ長かった髪を寄付しました。

⇒ NHKドキュメンタリー にっぽん紀行『髪がつなぐ物語〜大阪 梅田〜』
 女優の柴咲コウさんがナビゲーターとして出演したドキュメント番組をたまたまリアルタイムで観ており、このボランティアを知りました。カットしてもらった所はこの番組に登場したお店ではないのですが。

 はい、ことの顛末を言いますと、8年前、真皮下に直径4cm程のガンが見つかり手術と放射線治療、ホルモン治療を受けまして、その後ずっと執刀した病院で定期的に検査を受けておりましたら、今度は3年前から肺に極小さな腫瘍が見つかり、それが良性/悪性の判別がつかないほど小さかったため経過観察を続けてまして、今年5月に結局悪性と判明、転移性の早期ガンということで6月に肺の一部摘出手術を受けました。脇腹に10cmほどの名誉の勲章である傷をまた受けました。手術中の呼吸機能確保の為の処置の影響で、気管が炎症を受け、術後1ヶ月ほど喘息のような症状で過ごしていましたが、今後の運動能力や肺機能への影響は無いようで、今現在は筋トレも出来るようになってます。
 今回は早期とはいえ、悪性度が高いガン細胞だったため、抗ガン剤でしっかり潰そうという治療方針となりました。副作用に関しては個人差があるので、まだ投与されてみないとどう出るか分らないのですが、吐き気等副作用を抑える薬も沢山処方され、治療中も大作の制作は続けられると思われます。
 目下、大作4点制作中なんですが、これまで以上に複雑な構図にチャレンジしてまして、時間がかかっており(汗汗 群衆を登場させたりしてまして、これぞザ・歴史画!という作品になります。
 最近、俳優の渡辺謙氏がちゃっちゃと胃がん手術してあっという間にニューヨークの仕事場に戻ったというニュースがありましたが、今回の自分もその程度だろうと構えてましたんで、抗ガン剤の話は寝耳に水で、調子狂ってしまいましたが、副作用を抑えられるよう、作業ペースを落とさないで済むよう、医師に相談してやっていきます。脱毛は避けられないようですが、一年後の今頃には5分刈り程度には回復しているかと思われます。抗ガン剤で一度脱毛してもまた回復するようです。*1
 ⇒ がん患者SS TODAY!_治療3 化学療法
 ⇒ 「がん患者のためのアピアランスケアの手引き」エビデンスに基づいた医療者向け指針作成 国立研究開発法人国立がん研究センター

ヘアドネーション賛同美容室にて

 髪の寄付には色々ルールがありまして、それを心得ているお店がいいだろうと言うことで、Japan Hair Donation & Charityにて紹介されていた店へ行きました。20代前半まで、ベリーショートやアフロに近いパーマ等、様々なヘアスタイルを試していたのですが、まあここ20年はずーーーっと黒髪ロングで通してました。まさに自慢の黒髪でしたよ。昔は、太い直毛の髪質の私がショートでボリュームや流れを出すにはパーマするしかなかったものですが、行った先の美容院ではカットのみで巧みに流れを出してみせ、ショートカットの奥深さをもう生まれて初めて思い知ったのでした!何気に参考に持っていった画像がヴィダル・サスーンのスタイルだったのですが、担当さんが「やっと美容師らしい仕事をさせてもらえて、今カットしてるのが楽しいです!」と言って下さいまして、存分に腕を振るって頂けたかと。案の定ですね、ショートの方が似合うんですねこれが。モテてしまいそうで困ります。(*´∀`) facebookのプロフィール写真をこっちに替えます。自分で撮りましたyow

 お店で記念撮影。お店の代表の方の自作の毛髪の模型と一緒にwww

みなさま、ガンは専門の病院で標準医療を受けて下さい。

 今回みなさまに一番言いたいのが、近藤誠医師の「ガンモドキ理論」やガンの自然療法や食事療法を謳うところは、ガン心霊手術と同じくインチキでいつ告訴されてもおかしくない代物なので、関わらないようにして下さい、ということです。全てただの死亡遊戯です。可能な限りの高額な料金をふっかけて、良いカモにされます。ハーブも玄米もガン治療の役には立ちません。ガンが見つかったら病院で外科手術を受け、術後10年間3〜6ヶ月に一度の頻度で検査をしてもらい、転移があっても小さい内に処置してもらえます。
 こちらに代替医療やガン放置推奨論などを批判する様々な記事や意見をまとめておきました。ぜひご覧下さい。
⇒ ガン代替療法とガン放置推奨論への批判記事や批判してる人の意見の収集してみた


ガンの5年生存率の記事。

国がん、日本におけるがんの5年生存率を公表 - 全部位で62.1%

国立がん研究センター(国がん)は7月22日、2006年〜2008年診断症例を対象とした日本におけるがんの5年相対生存率を公表した。全部位では、男性59.1%、女性66.0%、男女計62.1%で、前回比はそれぞれ+3.7、+3.1、+3.5ポイントとなった。


同データは、都道府県が行う「地域がん登録」データを活用して算出されたもので、今回の集計期間には27府県が参加し、そのうち国内精度基準を満たした21県の64万4407症例に対して、全部位と部位別、臨床進行度別、年齢階級別5年相対生存率について集計が行われた。


全部位の5年相対生存率については、前回(2003〜2005年診断症例)集計の男女計58.6%と比較して向上しているが、2006〜2008年の罹患状況を踏まえると、前立腺がんや乳がんなど予後のよいがんが増えたことなどの影響も考えられるため、国がんは治療法の改善などが影響しているとはいえないとしている。


また、部位別に5年相対生存率が高い(70〜100%)群を見ていくと、男性では、前立腺、皮膚、甲状腺、膀胱、喉頭、結腸、腎・尿路(膀胱除く)、女性では、甲状腺、皮膚、乳房、子宮体部、喉頭、子宮頸部、直腸となった。


一方、5年相対生存率が低い群(0〜39%)として、男性は、白血病、多発性骨髄腫、食道、肝および肝内胆管、脳・中枢神経系、肺、胆のう・胆管、膵臓、女性は、脳・中枢神経系、多発性骨髄腫、肝および肝内胆管、胆のう・胆管、膵臓が含まれていた。


どの部位でも、一様に臨床進行度が高くなるにつれ、生存率が低下していて、多くの部位では早期で診断された場合には生存率が良好であることがわかった。また概ね、加齢とともに生存率が低くなる傾向が見られたが、若年者より高齢者の生存率が高い部位や、年齢と生存率との相関がはっきりと見られない部位もあったという。


 ガンも二度目なら、もう祈りもしませんね。自分のは治る病気ですから。体調の崩れや感染症の心配はしてますが、自己管理に励んで『二月革命』を成功させたいと存じます。
 ではでは。



追記:2017年8月1日記事
『抗ガン剤治療開始から一年、治療終了から8ヶ月。髪もショートヘアに戻り。』http://d.hatena.ne.jp/YOW/20170801/p1

*1:http://mainichi.jp/premier/health/articles/20151027/med/00m/010/009000c (川島なお美さんの訃報に際し)「抗がん剤に対する誤解が、さらに広まってしまうのではと危惧しました。この10年ほどの医学の急速な進歩で、抗がん剤の副作用対策はかなり進みました。僕の患者さんには、きちんと副作用管理をして、抗がん剤治療を受けながら仕事を続けている人が大勢います。それなのに「誰もが吐いて、髪の毛が抜けて、体がぼろぼろになって、寝たきり状態で仕事ができなくなってしまう」という世間の抗がん剤のイメージは、ほとんど変わっていません。もちろん、すべての副作用が無くなったわけではなく、不快な症状を伴うことはありますが、旧来の副作用のイメージとは大きく異なるのが事実です。そして患者さんの選択は尊重しなければなりません。ただ、著名人の影響力は大きく、正しい情報を受けられていたのかが気になりました。また、抗がん剤治療への誤解をあおるようなメディアの報道の仕方にも大きな問題があると感じました。」

京都の桜見に散歩し倒した、今日は筋肉痛。

 京都へは春夏に一泊して日本庭園観るのがまあ趣味なんですが、昨日一昨日と行ってきました。写真をfacebookに上げるわけですが、頑張って自分なりに渋ーくw撮ってきたんで、流れるのが寂しぃ〜(ノД`)のでブログに上げておくことにしました。私の写真見ろ下さい。(クリックして「オリジナルサイズを表示」ボタンを押したら、1500pxのが出ます)


東福寺。「桜撮ってきた」と言ったわりに桜の樹が全然無い名所からお送り致します。東福寺はぜひ真夏に行きましょう、剛健な建築に負けない力強い緑が見所です。だがこの写真は我ながら好きさ。ピンク色の小さな花がチラチラしてるんだけど、木瓜?ツツジ?遠目でよく分かりませんでした。



平安神宮境内。「桜撮ってきたぞー」と言ってるわりにはこれも桜じゃなーーい。桜をフツウに撮るより絵的に面白かったのです!ドヤ!



醍醐寺。やっと桜写真出してきやがった!境内で巨木の枝垂桜が何本もこれでもかーーっというくらい見られるスポットだよー。ここの枝垂は満開期がソメイヨシノより若干早い。ていうか、2枚目写真の枝垂の前にある松の木が見事でした。日本庭園の方は、夏と秋の方が見頃かと。



 

南禅寺。桜はこれくらい慎ましい撮り方が好きなんです!山の斜面に雑木林にまぎれてひっそり立ってるような桜が好きだよ。この時は雨がシトシトと。
 南禅寺も、別に桜の名所というんではないので、観光には、夏と秋の方が良いかな(笑)



哲学の道。全長2kmくらいだが、南下した方が満開に近くなっていったかな。狭い通りなのに、観光客で人通りがめっちゃ多いぞw 実はここもわたし的には夏推しスポット。夏は人はそんなに来ない。



 

ついでに昨年、嵐山に行って写したお気に入り写真もどうか見ろ下さい。これくらいのひっそりした桜写真が好き。



 以上です。どうもご笑覧ありがとうございました。

今回行ったところメモ:
醍醐寺 ⇒ 東福寺 ⇒ 哲学の道 ⇒ 下鴨神社 ⇒ 法然院 ⇒ 橋本関雪記念館 ⇒ 圓光寺

藤田嗣治のパリ時代のサクセス -FoujitaはなぜFoujitaになったか


この記事は前回の『絵画で正史はどう描かれたか -藤田嗣治の戦争画の場合』からの続きです。


 最初は藤田嗣治が戦争画描いた背景みたいなことを調べるだけのつもりだったのですが、副次的にパリ時代にどう成功していったかを知ることにもなりまして、まあせっかくだからそれもここに書いてみようかということになりました。キッカケは著述家の若林宣さんのツイートで紹介された、舞台芸術の研究の博士論文です。

 佐野勝也氏によれば、調査で分ったのは1923年から1951年にかけて9作品の舞台美術を手がけており、渡仏前は、帝国劇場の装飾壁画制作を手伝ったり、背景部のアルバイトもしたりしたようです。*1

 ただし「藤田が舞台や劇場技術に関連した言述は非常に少ないことが確認されている」とあり、舞台芸術について何か一家言するのは控えていた様子です。それでも藤田なら、舞台芸術が当時のモダンアートや未来派運動で「総合芸術」として期待されたジャンルであることは、認識出来たはずです。また、帝国劇場は「最先端の調光機を備えたものだった」ようで、ここでのアルバイトが後年に能やバレエといった舞台美術を手がける際に役立つ経験だったろうと思われます。

 佐野氏論文は藤田の舞台芸術はどうであったかを中心に書かれたものですが、残された写真資料やスケッチ等も少なく(藤田は意図的に残さなかったのか)、また基本的に、ある程度の評価は出来るものの、パリのアーティスト仲間だったピカビアやレジェ、ピカソが行った舞台美術に比較するとどうしても新規性や話題性には欠けるところもありますし、藤田もそれを随筆で認めています。
 彼にとっての舞台芸術は、本人が想定していた以上に、何よりも人脈と絵画を売る顧客を開拓する場となっていったわけです。

恵まれた出自と境遇


 舞台芸術にアクセス出来るキッカケになったのは従兄の小山内薫、軍医長の父は芸術家になるという息子のことで森鴎外に相談、そしてパリ留学を薦めてもらったという、経済的にも文化資本にも相当に恵まれた出自でした。パリに出てしばらくモダニズム、キュビズムの席巻で埋もれた存在でしたが、第一次大戦開戦後も藤田は私費留学だったこともあり、ヨーロッパに留まることが出来ました。官費で留学していた多くの日本人は帰国せざるを得ず、ここでパリに留まれなかったら、後のパリ画壇成功にも繋がらなかっただろう、と佐野氏は述べています。1913年に渡仏しましたが、なにせ、第一次大戦開戦が14年、終戦が18年、藤田が画家として開花しヨーロッパで活躍したのは1920年から29年の大恐慌あたりまでですから。

華々しき多文化のパリ時代

 藤田は、まだ自分の芸術の方向性が決まっていない頃(つまり、乳白色の技法が完成する前)からも、ピカソ、モディリアニ等芸術家の集まりに参加する他、前衛バレエの草分けであるバレエ・リュスの舞台を観、エリック・サティやラヴェルといった前衛的な曲からダミアなどシャンソン、ジャズも嗜み、ジョセフィン・ベーカーのレビューも観るといった、美術以外の先端の芸術を積極的に見聞していきます。

 特にバレエ・リュスやバレエ・スエドワの前衛舞台では、当時、ピカソ、ピカビア、レジェといった名だたるアーティストが舞台美術、衣裳を手がけています。藤田が前衛バレエの世界にアクセスしたことは、その後の成功にも大きく関わっていきます。

 1921年に藤田オリジナル画法である乳白色の技法が完成・パリ画壇の日の目を浴びますが、当時はモダンアートが席巻しており、具象の裸婦像といった画題に方向転換したのは彼の戦略、モダニズム一色の画壇に対するいわば「逆張り」でもあったでしょう。乳白色の技法については藤田が秘匿していたため、1990年代後半からようやく研究が進められました。

 1924年に、藤田はバレエ・スエドワから『風変わりなコンクール』というバレエ舞台の美術制作の依頼を請けます。バレエ・スエドワは、主催のロルフ・ド・マレの潤沢な資金力によって最新の照明技術を使い、興行的にはリスクのある前衛的な舞台を実行可能にしていきました。スエドワ自体は5年間の短い活動期間でしたが、解散後もマレは黒人レビューをプロデュースするなど、先進的な人間だったようです。そして『風変わりなコンクール』の舞台装置・舞台美術は新聞・芸術雑誌では好意的な評価がついたようです。
 1920年代の有名劇場は、いまだ19世紀から続く上流層の社交場としての機能が色濃く残っており、藤田もそれを存分に理解し利用していきます。

佐野勝也『藤田嗣治の舞台美術と劇場空間』p51
開演前や幕間休憩、あるいは終演後のロビーやホワイエでの立ち話が直接交渉での肖像画の依頼や絵の注文を受けることに大きく繋がっていくことになる。(…)
フランス社交界においてオカッパ頭・ロイド眼鏡・チョビ髭の「藤田嗣治」「日本人画家の藤田」というブランドを浸透させていく戦略を精力的に実践していく。1920年代、藤田は劇場という上流階級の社交場で画家自身のブランド力を確立したといっていいであろう。事実、1920年代半ばから藤田への絵画の注文は急増していく。

 パリ時代の乳白色の技法による作品群は私も観て心底から素晴らしいと思いますが、おそらく絵を描いていただけでは、一時的には画壇の注目を浴びても、後世にまでその名声が残らなかったかもしれないと私も思います。20年代の前衛芸術の先端であった「総合芸術」としてのバレエとの繋がりを築いたことにより、具象であっても、上流層の先鋭的な層へのアクセスが可能となり、確固とした人脈を作り得たのでしょう。

 
 また、前回の一番最後にも書きましたが、こうした「多文化的」「自由で寛容な気風」「華々しい社交生活」といった彼の経歴や気質が、そのまま、日本帰国後の国家主義、挙国一致体勢へとねじれも無く移行したのは、私は経験的にも、さほど不思議だとも不自然だとも思っていません。これらがナショナルな志向へと連綿としていったのは何故か、その説明は難しいので、今回はこの辺で終わりたいと思います。


追記、藤田がパリ画壇での成功をおさめた経緯についての先行研究は、すでに色々あるはずです。

*1:佐野勝也『藤田嗣治の舞台美術と劇場空間』 P23

絵画で正史はどう描かれたか -藤田嗣治の戦争画の場合

この記事は前回からの続きです。


 近年戦争画に注目されて、アート界ではちょっとしたブームのようになりました。つい数年前までは「戦争画に興味あります」などと言おうものなら他のアーティストにドン引きされることもありましたが。
 私は歴史画というテーマで取り組んできてますが、美術史においては歴史画というと、かつて「正史」を描くことを担ってきたと。正史とはつまり、王朝や国などが編纂し対外的に正統であると示す歴史であると。

 これは最初の打ち合わせの時に速水螺旋人さんが仰ったんですが、「めちゃくちゃナショナリスティックな信条の作家がその歴史観でもって描いても、面白い作品が出来るなら凄いことじゃないのか」、と。後日、漫画の世界では安彦良和の『虹色のトロツキー』がそうだとも仰ってました。私も愛読してきまして、速水さんの言うことも頷けます。

虹色のトロツキー (1)

虹色のトロツキー (1)

 いわゆる現代アートでは、カウンター表現であること自体がもはや規範のように考えられているところもあります。とりあえず、ここでは絵画で「正史を描くとはどういうことだったか」という疑問を改めて立ててみました。そこで、画家としての私の見解で、藤田嗣治を取りあげてみたいと思います。調べた中で、藤田のパリ時代の成功についても副次的に見えてきたのでそれも次回取り上げたいと思います。
 

戦争画はなぜ横並びの技法で描かれたのか

 
 藤田嗣治は私の大好きな画家です。図の左が本来の作風であって、右の戦争画の類は、藤田自身も自分のものとは違う何かとして描いてたんじゃないか、というお話をして参ります。藤田の大々的な回顧展は京都で10年前にあったのですが、戦争画の類はその時出展されておらず(確認したら『アッツ島玉砕』が出展されてました、記憶にございませんでしたw)、私は2012年になって、東京で初めて実物を見ることができました。彼の戦争画の第一印象としては、今まで見てきた藤田の丹念な仕事ぶりとは違って、量産体勢と早い納期のためか、一作にかけられるエネルギーをなるべく抑えた描き方をしているな、と感じました。配布資料の絵の具の説明でも書いてますが(コチラ)、戦前はまだ絵の具や下地剤もキャンバスも手作りする人も多く、そして藤田はパリの美術仲間のうちでもおそらく最も、画材について研究熱心な人だったのです。自分の手法を藤田はずっと秘匿していたため、1990年代後半になるまで、専門家にもどうやってるのか分からないところがありました。しかし現実に「画面に画材がちゃんと付着している」ので、藤田は数多くの実験をちゃんと試みて、経過観察というのをしていたわけですが、そうした試作は数ヶ月や数年を要しますから、1920年代はモダニズム全盛だったこともあり、絵画ではちゃんと試作やってみる作家は、そんなに多くなかっただろうと思われます。当時の絵描きは、試作やるよりも早く描いて出してしまいたいというタイプが大半だったと思います。それをよそ目に、藤田は研鑽の結果、藤田オリジナルの、清潔感のある優美な画面が可能になったのですが、誰の追随も許さない大変に優れた仕事だったと思います。
戦前は、アッツの前にもこういった群衆図の大作が何点かありました。

 
 さて色んな美術展で色んな作家の実作を観ますと、数世紀前の作品でも、使われている絵の具や顔料によって、作家の経済状態、オファーしたパトロンの力というのが分るんです。

 レンブラントは私も大好きな画家なんですが(ここも私が実際で観た作品縛りで挙げていきます)、左はイケイケだった時太い顧客がいた時代の大作で、これも素晴らしい出来でしたが、レンブラントって面白い人でして、ガラクタや骨董の買い過ぎて破産して、晩年の作になると、高価な顔料使えてないことが分ります。絵の具で生活の困窮ぶりが伝わってくるわけです。

ギュスターヴ・クールベ1854年

それとは逆の例で、クールベですが、彼は社会主義者で農民や無名の人を描いたことで知られていますが、作品の実物を観ると良質な顔料が使われていまして、存外に裕福な人だったんだなと分ったりします。


 話は藤田に戻しまして、戦争画になって、それまでの独自の技法は用いず、非常に簡略的に制作されていると。これは、陸軍美術協会の他の洋画家、御厨純一、宮本三郎など技法にかなり横並びな印象がありまして、彼らは一律に効率的な描き方というのを採用しているなと思われました。協会で兵士がモデルを努めたデッサン会は催されてたようですが、戦争画制作の研鑽会のようなものがあったのかどうかは、調べた範囲では出てきませんでした。


 油彩では、グリザイユという手法がありまして、墨色、白、土製の茶色、或いは土製の緑色など、少数の顔料で、モノクロームに描くというのがあるのですが、ルーベンスが特にこうしたラフ・スケッチを数多く残しています。そして、実作作品の下描きにおいてもこのようなグリザイユをします。本当に下描きだと、上から描画していくので後世の人間は見ることが出来ませんが、


 私の作品の下描きの時の写真ですが、絵の下層ではこうしたグリザイユ技法で描き、上層で、赤や青といった固有の色を載せていきます。(完成写真はコチラルーベンスがグリザイユを沢山残してるので、描画層に覆われた下描きの分析が後世に行われました。



 『アッツ〜』の部分写真です。少ない絵の具数で完成されていますが、これもグリザイユ的な手法と見ました。世田谷の宮本三郎の美術館にも行って観てきましたが、戦後は様々な画法の探究、試行錯誤をしていて、藤田と同じく宮本も、陸軍美術協会でやっていた時とは全く違う技法探究をしていました。

御厨純一『ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲』(昭和17年

 航空戦の絵の場合も、カメラ位置が特殊でしかもだいたいが構図が優れているので面白く見えるんですが、描画層がかなり簡略化されていて描き込みが浅く、この作品でもタブローとしては物足りなさを感じました。実際に鑑賞するタブローとしては物足りなくても、写真写りメディア写りは良い作品、というパターンです。
 戦時中は絵の具は配給制にあり*1、使われているのはいずれも土系の安ものが中心で、このアッツ玉砕も、70年経て絵全体がかなり暗く変色してるものと思われます。描いた当時はもっと明るかったのではないかと考えています。戦後しばらくの間、保存の悪かった時期があったのかもしれません。で、更に意地悪な見方をしますと、パリ時代からの画材のストックが家にあったのかどうか、家に上等な絵の具のストックがあって、それを出し惜しみして配給の絵の具で描いたのではないかと思いましたが、これも私の推測に過ぎません。パリ時代の作品は色彩も深みも美しく残っていますが、それらとは違い、戦争画では藤田自身、短期に消費されるものとして描きとばしたのではないかと思えます。
 大戦末期になると『アッツ〜』のような凄惨な描写も陸軍から協会にオファーはされていまして、宮本三郎『飢餓』もアッツ島玉砕図の同年1943年に発表しています。
 「厭戦気分を催しかねない凄惨な描写」に関しては藤田は、当時のインタビュー記事やエッセイによれば、ひたすら絵描きとしての興味で描いてた、と思わせるところがあるようです。つまり特に政治的な主張は無かっただろうと。これに関しては、祭りの喧噪好きで柔道の嗜みもあったこと等から、『アッツ〜』を、取っ組み合いの様子を描いて腕を振るってみたかったのではと分析した河田明久氏の評論があり、絵描きの私としては説得力があります。*2
 藤田当人も「一つ私の創造力と兼ねてからかいた腕試しという処をやって見ようと今年は一番難しいチャンバラを描いてみました」と、これをチャンバラと称しています。*3 

 また、Twitter上で戦争画についてミリタリーに詳しい方々から、美術の人間ではとうてい気付けないような色々なご指摘や説明を頂きました。承諾を得て、ここで紹介をしていきたいと思います。

『哈爾哈河畔之戦闘』1941年




藤田に政治的マニフェストはあったか

 鴻英良さんによる、藤田の随筆などで1912年の大逆事件や当時の社会主義運動に関する発言・記述の”欠落”に着目し、そんな彼の「不自然」について書いた評論があります。*4 更に興味深いのは、藤田は1929年の大恐慌がきっかけでパリに見切りをつけ、1931年から約2年、中南米を旅をしていますが、パリ時代からディエゴ・リヴェラ(メキシコ帰国後に共産党入党)との交友があり、メキシコ旅行の際はリヴェラ、シケイロス、オロスコといったメキシコ壁画運動の作品を観て感銘した旨の発言はしているのですが、政治的意味合いを見て取ったことについては一切黙していたと。逆にこうした社会運動について批判や嫌悪や冷笑を示した記録も、見当たらないようです。シケイロスやオロスコ、リヴェラというと、ストレートな当時の政治表現をする作家なので、某かの反応を拾えないのは、奇妙に感じます。

 藤田嗣治の研究者・林洋子氏は『藤田嗣治 - 日本が生み、パリが育てた「多文化」の画家』と題した講演でこう説明しています。

 1930年代の中米、特にメキシコはヨーロッパからシュルレアリスト共産主義者が訪れるなど、文化的に多いに活況を呈した場所でした。藤田が中南米に「逃避」したのは、あくまでもフランスの文脈からでしょう。当時の日本人にとって、この地域はひたすら移民先だったのです。

 藤田自身は、リヴェラやメキシコの作家たちの仕事についてこのように好意的に書き残しています。

 更にメキシコは新しい美術を生んだ国である。新人ジエゴ・リヴェラ。ジョーゼ・クレメント・オロスコの両大家の名声は北米ニューヨーク、シカゴは勿論カリホルニア地方にてはメキシコ同様広く伝播されて、世界的大家として敬されて居る。其他、シキヱロス。モンテネグロを初め青年画家にも有名な人がいる。
(…)
 大成した現在はロックフェレールの壁画を描き、一メートル四方四百ドルすなわち千二百円の割合で収入を得ているという。メキシコの歴史、主に革命戦等を描きさらには機械文明を主題とした個性のある天才である。泥のような代赭色とかいうメキシコの独特のローカルな暖色を使用し壁画に直接に複雑した構図で描いている、オロスコの名前と共に有名であり、ことに北米の人は悉く知っている程である。

 研究者の林洋子氏も市川慎一氏も、藤田について「あまり論理的な人間ではなかった」と見ています。私は、彼の文章や作品を観て、非常に知的な人間だったとは思いますが、社会情勢を大局で見たりする能力だけが欠落していたのか、充分知的だっただけに奇妙さを感じました。ただ、藤田の父が、朝鮮総督府で軍医長にまで昇格した人でその父を心から敬愛していたようで、このことから、いわゆる社会問題一般が、彼の身上から他人事だったということかもしれません。

日本帰国、超エリートとしての矜持

 ところが一方で、1944年5月の雑誌に寄せた『戦争画制作の要点』という藤田の文章からは、藤田が陸軍美術協会や戦争画を自分が牽引するんだという高い志しやエリートとしての自負心があったことが読み取れます。
 映画『FOUJITA』の小栗康平監督はインタビューで、「西欧の個人主義近代主義を知ってる人だった」と語っていましたが、1920年代というと、欧米も日本も束の間の自由と平和を謳歌できた時代で、その頃に彼は大都市パリで成功したわけで、近代社会というものと個人主義の価値を知った人だったと考えても良いのではないかと。こうした洋行帰りのエリートの美術家たちが、「戦争になったら急にパッと国家主義に目覚めた」というのではなく、かつての1920年代のパリでの華やかな社交生活の経験、というものから、日本の挙国一致への意思・ナショナルな思想に到達というのが、わりに、彼らには連綿と連続していることだったのではないかと考えます。
 敗戦後、藤田はデマも含めて戦争責任を責められたので、日本を捨てフランスに移住しています。デマに基づく批判にも見舞われたゆえか、「日本画壇は早く国際水準に到達してください」とか「日本人は早く大人に成長しろ」といった捨て台詞をして行ったのは有名です。この戦後の画壇のいわゆる戦争責任追及を藤田に「引き受けて下さい」と泣いて依願したのは、同じく戦争画で旧知だった内田巌だったということです。*7 そんな
内田が戦後は日本のプロレタリア絵画を牽引する「書記長」になるのですが、やがてその名も忘れ去られるのは皮肉なものです。

 一方で、藤谷は西欧の個人主義が身についてるゆえの、捨てセリフだったんじゃないかとも私は思いました。というのも、それで私が思い出したのは、丸山眞男の論文で、極東裁判での被告の自分の意思の無い、抑圧移譲をさらけた答弁だったのと、対して、ニュルンベルグ裁判でのナチスの被告たちによる、確固とした自分の意思による政治的選択だったんだとした、開き直りともとれる自覚的な答弁とを比較した有名な論文ですが、それを思い出させるような、捨て台詞でもありました。



 次は、藤田のパリ時代の成功について、書いていきます。http://d.hatena.ne.jp/YOW/20160312/p1

*1:画材配給についてサクラクレパスの記事:http://www.craypas.com/target/senior/colum/0909.php 配給でどんな顔料や油が使われていたかなど国立国会図書館で検索したが出てこず、こうした古株の画材メーカーに質問してみるのも手だが、今回そこまで調べませんでした。

*2:河田明久『笑う、転ぶ、叫ぶ、泣く--藤田嗣治と「とっくみ合い」のモティーフ』2006年:http://ci.nii.ac.jp/naid/40007313023

*3:ユリイカ2006年藤田特集号の大塚英志の文章より抜粋。瀬木慎一『書かれざる美術史』に紹介されているようです。http://www.gei-shin.co.jp/comunity/24/14.html より「藤田は『アッツ島玉砕』を制作中の昭和十八年八月十九日に、木村荘八に手紙を送っている。その手紙が瀬木慎一の『書かれざる美術史』(芸術新聞社)で紹介されている。」

*4:鴻英良『藤田嗣治の疑惑』2006年:http://ci.nii.ac.jp/naid/40007313020

*5:市川慎一『メキシコと日本人画家--Diego Riveraと藤田嗣治』(2005)より抜粋:http://ci.nii.ac.jp/naid/40006934430

*6:藤田嗣治『メキシコを顧みて』1934年 市川慎一『メキシコと日本人画家--Diego Riveraと藤田嗣治』(2005)より抜粋:http://ci.nii.ac.jp/naid/40006934430

*7:佐野勝也 博士論文2013年  p124-125 :https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44411/1/Gaiyo-6385.pdf