蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ(四)コンテンポラリーの映像作品から曾我蕭白まで(2013年1月-4月)

『WHAT WE SEE  夢か、現つか、幻か』展 大阪国立国際美術館 2013年1月

大阪国立国際美術館 2013年1月
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2012/id_1207134358.html
 この時は、アートにおける「ジャンル」というのは、なかなか侮れないなあと思ったでござるの巻。

 国内外の映像作品ばかりを集めた展覧会だったのだが、今まで鑑賞した美術展で指折りの見ごたえがあって、記憶に残る良い企画だった。


現代アート展で映像作品がいくつもあると、1日ではとてもじゃないけど消化出来ない問題。

↑饒加恩作品『レム睡眠』2011年。インタビュー動画があったので貼っておく。展示ではスクリーンが3枚並んでいて、それぞれ別の人が写っていて、入れ替わり立ち替わり色んな人が登場する。全部観るとすると1時間弱はかかったかもしれないが、飽きずに観てられる内容だった。
 Tweetでも書いてるが、携帯電話やメールなどが発達してる今だからこそ、国外への出稼ぎ労働者たちが自分のホームグラウンドとの繋がりに、夢見とか虫の知らせとかの霊性の察知に心を寄せてるところへ着目してるのが、観ていてしみじみとくる作品だった。



↑Johan Grimonprez、『dial H-I-S-T-O-R-Y』1997年
 発表は97年だから、その数年後に911が起きてるが、メディアを巻き込むタイプの劇場型犯罪の先駆け(?)としての旅客機ハイジャック犯罪に着目して映像作品にするという、これは「現代アートの映像」というジャンルならではな表現だったと言えるな。作中、日本赤軍クアラルンプール事件とよど号ハイジャック事件も取り上げられている。


全編公開URL
https://vimeo.com/231411671



↑Johan Grimonprez『Double Take』2009年
 Tweetの説明が、一体何言ってんだか、悪文だったが、
テレビ放送の黎明期、フルシチョフの訪米、ソ連の科学技術優位時代といった東西冷戦時代をテーマに、西側世界のアイコンとしてこの作品ではヒッチコックを配していると。ヒッチコックはテレビドラマでも映画でも、冷戦世界のスパイ・サスペンスを色々と製作していている。そして代表作映画『鳥』(1963)をフィーチャーして、所々に烏を狂言回し的にカットアップヒッチコックは、自身の姿を撮った映像を多く残しているから、そこからもカットアップしてきて、歴史的報道映像の中に放り込まれていく。ヒッチコック英米でアイコンとして相当馴染みが深いが、ケネディニクソンといった政治家よりもここでは時代の象徴的な扱いをしている。歴史的な映像をモンタージュして新たな作品をつくるというのは、先ほどの『dial H-I-S-T-O-R-Y』も同じ手法だが、効果としてはそれだけで強いものがあるので、良い作品だけ観られたのは良かったな。私がやってる「歴史画」というやつも、これらに通じるやり方なんで、注目した。

全編公開URL
https://vimeo.com/133335917


↑Eija-Liisa Ahtila、『受胎告知』2010年
参照記事:『EIJA-LIISA AHTILA
THE ANNUNCIATION』https://www.guggenheim-bilbao.eus/en/exhibitions/eija-liisa-ahtila-the-annunciation/
これは、グループカウンセリングも併せてという印象だったが、あるワークショップで数人の女性が、受胎告知を受けたマリアの心情などを語り合い、それぞれが家に持ち帰り反芻して、皆で劇として演じてみる。篤い信仰の背景があってこその作品だと思う。撮影もきれいだったし、丁寧に製作されていた。






2本合せて2時間半くらいのを再度観たのね。


出展作をDVDにまとめたの、ギャラリーショップで販売してなかったか、またみておこ。



『美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年』展

東京国立近代美術館 2013年1月
東京国立近代美術館の所蔵品からの企画展
http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=79085goo.gl


藤田嗣治1943年『アッツ島玉砕』

藤田嗣治戦争画は2006年、京都国立近代美術館での生誕120年の回顧展にて観てるのだったが、どうやら私にはあまり印象に残らなかったようで、この2013年の時、初見だと思って観ている。2010年以前はあまり上京する機会もなかったため。

 藤田嗣治戦争画については、この後調べる機会があって、こちらにも書いた。

● 
絵画で正史はどう描かれたか -藤田嗣治の戦争画の場合


安田靫彦 1940-41年 『黄瀬川陣』




安田靫彦の大作とは、この頼朝義経兄弟を描いた歴史画のことだったが、後年、東近美での回顧展でもお目見え。繰り返しになるが、中世世界のテーマで手法は王道でありながら、強く近代性を感じさせる名作だと思う。ところで「一体、その近代性って何だw」と追究したいところであるが、別に便利な言葉として使ってみたつもりはないけど(いや結局は便利に使ってるか)いわゆる「テイスト」の問題もあるな、うーーーん難しくてとてもじゃないけど、ポッとは書けないw 人物の内面描写がとかね、背景の処理が、とか、かなーり色んなことは言えそうな問題だけど。私たち美術の専門家が「中世的」「近代」と形容する時、「テイスト」や共通の特徴を感覚的に捉えているんだろうけど、これを言語化するのは大変だな。美術の近代性(〇〇性ってつけるのもあまり好きじゃないけど)について整然と語れる人なんて、批評家にも研究者でもめったにいないだろう。てきとうな問題提起らしきものを投げただけで、この話は終わるのだったw まあ、しっかり分析された本があれば、読むけど。


画像のデジタルアーカイブでもあれば指し示せるのだが。版画のアジテーターというと、パリの五月革命なんかも思い出す。




ちょうどその前日に、東京駅近くのカフェで相互フォローの詩人の方と「ポストモダンでの大きな物語の終焉」といった話題で長話をしたことにかこつけて言ってる。
大きな物語とか、これも便利な言葉で、使うのははばかれるが。


 この上京の時に東京国立博物館にも行ってるが、東博のレビューはこちらにまとめてある。

● 
東京国立博物館 トーハク 感想ツイートまとめ その1
● 
東京国立博物館 トーハク 感想ツイートまとめ その2



ボストン美術館 日本美術の至宝展

大阪市立美術館 (2013年4月)
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/boston



大阪人は親しみこめて「天王寺美術館」と呼ぶ。いつも写真と印刷が見やすいなという印象。
軸物は、作家とは別で、表装の仕事も見ものである。雪舟の作品でも、後年の職人によるだろう表装がいまいちだなと思ったことがあった。ちなみに、2017年の美術史学会へ聴講に行って、京都の老舗の表具会社の会長さんの講演を聞いて、フィーバーした連続ツイートがこちら。↓


吉備真備大臣入唐絵巻、12世紀後半の作、紙本四巻。巻第一と巻第二の、部分だけ画像上げておく

巻の全体の構成、構図のことでdisってて、人物だけアップで見ると、愛らしくユーモアがあって見所もあるのだった。↓

部分拡大


下村観山の何と比較してたこう言ってたのか、不明w 今図録を見返していると、大変に見事な群衆図、よくできた構成じゃないと思えるのだが、絵画は、実際に観た時に受けた印象の方を信用することにするw 写真や印刷でなく実物観ると、違うものを感知するもので。
平治物語絵巻 三条殿夜討巻 13世紀後半作 紙本
参照図は両方共部分のみ






この時観たのは十六羅漢図の内の4幅。伊藤若冲は、世間では華麗な彩色画のイメージが強いかと思うが、この羅漢図もあまり気負いなく描かれてるかと思うが、こうした水墨画も大変良い。関西のミュージアムではちょこちょこ観られる。ちょっと手すさびで書いたような水墨画でも、一目で良いな、巧いと思わせる表現力や技量が若冲にはあって、近世の画家の中でも傑出してると思う。



この時の展覧会で目玉だったのは、蕭白。鬼の図というのは『朝比奈首曳図』。いずれも、人物や筆に躍動感があって、構成の巧みさも唸るものがあった。

1763年の、全長10m超の大作。みずみずしく、おおらかで、どこか若者らしい良さがあって、ほんと良いもの観られた。こういう作品に対峙した時、ちょっと作者と話もできたような気がして、良いもんです。






では今回はこの辺で。また来月更新、いつまでも続く。
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展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ(参)会田誠『天才でごめんなさい』展をめぐる記録(2013年1月-2月)

会田誠『天才でごめんなさい』展 森美術館 2013年1月
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/


長い前置き

 この展覧会は、2013年1月25日とある団体から会田氏の『犬』シリーズに対し、「児童ポルノ」「少女に対する性的虐待」であるとする抗議文(https://www.paps.jp/moriart-group-statement)が森美術館へ寄せられたことを端にして、アート関係以外でもTwitterでは様々に波及し、議論がなされたので、展覧会に対する以外の発言も追って記録したいと思う。他者のツイートの引用もしたが、あくまで自分のアカウントに載せた発言や、私とやりとりのあったツイートに限ることにした。それ以外のやりとりは、当時の騒動の様子を伝えるこのまとめを貼っておくに留める。

 議論としては、こっちのTogetterの方がずっと内容が良いと思うが。


 抗議文によると絵画作品を「児童ポルノ」「少女への性的虐待」としていることから、昨今、Twitter界隈では所謂「表現の自由戦士」と称されるクラスタが「フェミ」と彼らが目す相手への危機感を煽る、これが大きなキッカケになっていたのかなと、改めて思ったりする。
 さて、ツイートを振り返る前に、先に私の考えなどを改めて書いておきたい。炎上の対象となった『犬』シリーズについては、発表された1990年代終わり当時、私は、この作者の目先の勘の良さ、嗅覚の良さみたいなところにいたく感銘したものだった。まず「新しい表現」だと感じたのだった。『犬』シリーズの中では特に下に上げた作品は、今の私から見ても、構成といい、絵画としての完成度が高いと先ず評価出来る。また、これには例えば古代ギリシャ彫刻等で部位が欠けた人像を愛でることを、美術鑑賞の上でのフェティシズム ―倒錯として捉え直してみる、という作者の意図があったのではなかったかと考えている。



会田誠『犬』シリーズより


 で、同じ頃、国外でもRoman Slocombeがオシャレなサブカル誌でも話題になってきたりで、嗜虐的あるいは被虐的なフェティッシュを追求する作品が、SM誌の商業イラストではなく現代アートとしてやりとりされているという状況が、当時としては「とんがってる」ものとして、サブカル界隈でも受けとめられていたように思う。まあフェティシズムのアートは古くからあったんだけども。

参照:Roman Slocombe


参照:Roman Slocombe

 その前に、村上龍の小説がキッカケで日本ではSMが妙に世間やお茶の間まで認知されるようになっていたり、国外でも「ハイリスク系」と言われた小説が流行したこともあった。その中で特に有名なのは『アメリカン・サイコ』かな。

参照:『ハイ・リスク』な作家たち――現代アメリカ小説の新潮流(『GQ Japan』創刊 3 号 1993 年秋あたり) 山形浩生: https://cruel.org/gq/gqrisk.html
 ハイリスク系といった刺激物表現も、この10数年20年経過で、当然のことなのだが、ずいぶん新奇さも褪せてきた。
 『天才でごめんなさい』展へは、私は抗議文が発表される前に行ったのだが、展示のゾーニングもされてあり注意書きも立てられてあったので、作品の評価はともかく、施設側としては基本的にこれで問題のないものと思ったし、基本的に、あの展覧会についてはそこは今も大体私の中で変わらない。「性的・暴力的表現を、不意打ちのように目にしてしまう」といった旨の批判については、美術館という展示空間への入館は、街を歩いててブラッと入る店や看板を見かける・コンビニの雑誌表紙問題や電車の吊り広告問題とはまた違うと考えている。『犬』シリーズの場合、反社会的な内容を含む(会田氏はそれを推奨して描いてたわけではない)が、「反社会的な表現」に関してはそれこそ哲学なり美学なり社会学なりの知見から整理して語られないと、どうしてもグダグダになりそう。さらに、性的表現に関しては、暴力表現とあまり同様に出来ないところもあるという気がする。
 当時のTwitterでの炎上は、主に抗議文に対するツッコミだったように思うが、館側と作家の改めて返答で出した回答やツイートなどがどうも精彩を欠いていたため、私も確かこれを境に、芸術と表現の自由とか公共性について考えるところや見方が変わってきたかと思う。少なくとも、作者や展示側は予め「世間」の反発はおり込み済みだったはずと見なして良いと考える、そうした反発をも作品世界に取り込めたらそれは表現者としては大変な偉業となるだろうけど、そこまで期待しなくても、このSNSの発達した世の中で、作品に添える言語表現もキチッとそれなりに更新させる必要があるのではないかと考えた。視覚芸術の作家にもこうした言語活動は今後必要になっていくだろう。そしてそれは、SNSで昨今、所謂性的表現の自由派等の人々が警鐘を鳴らすような、「政治的正しさの追及、強制」とはまた違う、すぐれて才覚の問題でもあるなと私は考えてる。

 ああ前置きが長くなった。



展覧会と作品について

並びは必ずしも時系列でなく、話の内容で並べ替えをしています。


私もさなぎさんと呼ばれるなど



1月25日、ある団体による森美術館への抗議文が公表され、方々で議論噴出



このツイートの日、峯岸みなみ丸坊主動画公表がSNSを駆け巡りまして。
 


 私は以前なら単に「ゾーニングさえすれば好きに勝手にやれば良いんじゃ」という立場だったが、この会田誠展の騒動以降、普段の発言でももう少し踏み込む?ようになった。ゾーニングや性表現、アーキテクチャ等に関する法学等の本を個展が終わったら次回の構想のためにも読むことになるけど、まだ手がつけられてない。


パロディって、鑑賞者に内容伝わるのが早い反面、表現としては安易なことも多く。
タチコマのパロディでした。

※※鍵垢ですが発言者の許可を得ました。
あたしかさん鍵RT:.@YOW_ まぁそれはそうですが、ああいう形で「公共性」概念が持ち出されてくる文脈というか位相に介入するような形で議論のスタイルを作っておくこと(美術作品は本当はそのような位相にこそかかわるのではないか)も重要ですね。というか当方は基本的に後者にしか関心がない(爆)



「釈然としない観客」と現代アート

Ustreamでの会田さん出演のトーク番組を観て。

1996年『紐育空爆之図』


↑「私が建築の集積で描いてた」とはこれのこと。これはキッツかった。↓

F100, acrylic color and mixed media

ジュスティーヌというのは、タイトルをよく知らなかった昔から、私が『犬』シリーズを勝手に言習わしてた呼び名です悪しからず。

「制度」なんて、ただ便利な言葉に成り下がってるのを気にしてる自分。
↑これは、芸術か猥褻か、芸術かポルノかといった対立項の設定自体に対する、抵抗感を示したものかと。今回は、こうした対立項を、警察等ではなく、作者側が設定したものだったわけだ。



この件はこの辺で。
展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ、今後も8、9、10くらいまで続くかと思われます。
ではでは。


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芸術は爆縮だ! -「絵画は死んだ」への画家小倉の返し

このフレーズ気に入ってまして、いつも使わせて頂いておりますありがとうございます



音楽界と違ってアート界には主流も傍流もとっくに無えよ

 今日もしばれるのう。もそっと寄って火にあたれや。
 先日東京での地域アートとアーティストの関わりについてのシンポジウムに行ってきた時の話をしよう。普段、自分が構築したアートクラスタ薄めのTwitterタイムラインでキャッキャしてるもんだから、たまに下界へ出て現代アートクラスタに直接会うと、オーソドックスな技法での具象絵画で制作していることを自己紹介すると、
「美大教育粉砕、制度化された◯◯粉砕!俺たちは過去のやり方に縛られずカウンターアート張っていくぞー!」
とばかりに敵愾心のようなものや不振な目を向けられることがあるのを、すっかり忘れてしまうものなのじゃ。逆に、例えば公募展系の作家に出会うと、私が無所属であることや
「誰が買うんだ、こんな重たいグチャグチャと小煩いテーマのいわくつきの絵を。ギャラリーも迷惑してるんじゃないか」
と訝しがられる。アート界というのはそういうものじゃよ。で、その件のシンポの懇親会にて、私はある作家らに「絵画はもはやアートじゃない」とdisられたのじゃ。もう紹興酒片手にラップバトル状態になったのじゃ。あらかじめ断っておくと、私としては、皆が等しく絵画作品を貴重なこわれものとして丁重に扱ってさえくれれば、「実は興味持てないんだよねえ」と言われても、別段怒るようなことでもない。だから今回は他人に絵画への興味持たせることが目的ではない。昨年見かけたあるアート批評家による気になる記事があって、それと一緒に、ここで考えて書き出してみようということだ。

貴族が跋扈した時代

 導入に、80年代の進歩的知識人らによる引用と話からしよう。80年代後半から日本は世界第二位の経済大国となり一般市民にも「景気が良くなった」との実感が広まってった頃、日本では「ジャパンアズアナンバーワン!わしら新人類!新しい時代の夜明けぜよ!」という気運に満ちていた時、こんな本が人気があったのじゃ。

EV.Cafe  超進化論 (講談社文庫)

EV.Cafe 超進化論 (講談社文庫)

蓮實重彦:映画史っていうのは、簡単に言ってしまえば、グリフィスがつくって、ゴダールが殺した、これで終わっちゃうわけです。ま、ゴダールが脱構築したといえばもっと分りやすいという話ですよね(笑)。
 ところが、その間に凡庸さって問題がある。社会の普通の顔としての凡庸さって言うのがあって、その人たちはゴダールに殺されても一向にいたまない。ゴダールの脱構築性を特権視すると、結局その人たちが生き延びちゃうわけですよ。ゴダールによって殺されるのは、対話可能であるが故に傷つく最良の部分になるわけです。僕はその両方を生かしておきたい……といっても、ゴダールとグリフィスの両方を肯定することで、現状をあいまいにしてしまうことじゃあなくて、両方がたえず緊張関係にある状態をうみだしたいんです。ゴダールによって殺されていたにもかかわらず、自分が死んだってことを知らないで撮り続けているような人たち—例えば深作欣二でもだれでもいいですけど(笑)、そこらへんの人たちを批評し得る唯一の根拠は、ゴダールおよびグリフィスを両方自分の中に取り込むことだというふうに思うんですよね。
坂本龍一:凡庸さというのは、その二人を両極においた中間項の凡庸さっていうことですね。
蓮實:ええ。ゴダールの映画が好きだということは、例えばマキノ雅裕の映画が嫌いだということの同義語にはならないということを考えるわけですね。
坂本:映画自体の固有の快楽という、そういうことなのかしら。
蓮實:いや。どうしたって矛盾であるわけですよ。ゴダールが好きだったら、マキノ雅裕のように本当に技術だけでたたきあげてきた人の、一種演歌に近い世界みたいなものはゴダールとともに殺されなきゃいけないはずなんだけれども、僕は、そのようなゴダールの挑発にはあえて乗らないっていう立場をとりたい。
村上龍:ああ……。
蓮實:それはゴダールの問題であるかも知れないけど、僕の問題ではないという気がする。みんなゴダールと同じように考えようとするのが凡庸さの表れでね(笑)。

p269-270より

 80年代後半当時の典型的な批評言説としてここで挙げてみた。浅田彰さんもこんな調子だったべな。昨今の、SNSで流れてくるアート批評家KYさんとかはじめ、アート界隈の罵倒芸はだいたい、この頃の亜流の使い回しの燃えカスを掃いた後のシミみたいに見える。
 蓮實さんがこの鼎談で言ってた意味は、私にも分るっちゃあ分る。内輪相手じゃなくてもっと世の中の新しい動きとか思想とかに興味無いんですか、撮影技術ももはや大したことなくなってるけど、技術以前に・・・・とか。
 美術の世界に引き寄せて考えると、その最果てにあるのはてきとうな裸婦像とか情弱な金持ち相手のの画廊とか、そういうことでしょ。はいはい分ってますよー。
 蓮實さん自体の人文学等での評価は私はあまり知らないので横に置いておいて、蓮實重彦という人は少なくとも、映画の黎明期から現代作品まで膨大な数を鑑賞をして知見を貯えてきている、高い専門性を備えた無二の批評家であり、同じくお仲間の淀川長治さんからは「黒髭男爵」と渾名されてたわけだが、どなたかが仰ってたが、蓮實さんみたいな貴族の真似を貧相な知見の人がしちゃ、目も当てられないんですよ。蓮見さんや浅田さんやフランス現代思想みたいに「◯◯によって××は殺された」「××はもう死んでいる」宣言なんて、言える玉かっつう(誰とは言わない)


 あとはキチンと説明書くのはホントに私には大変だから、この本でも読んで欲しい(省力)

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか

 それと、アート界のスターダム?有名性の疑問が話題に出たのだったが、これは経済学など様々な分野でそれぞれの研究があるだろう。私が知ってる社会学の先生で南後由和さんと言う方がそのものずばり「有名性」の研究論文を書いておられてた。加島卓さんも、そうここで紹介して良いのかしらん、直接お話まだお伺いしてなくて、すみません。
文化人とは何か?

文化人とは何か?

 あと、これ、ゴッホは何故死後に歴史上の芸術家になったかということを調査した芸術社会学の有名な本
ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

ゴッホはなぜゴッホになったか―芸術の社会学的考察

 それのパロじゃないけど、藤田嗣治について書かれた論文読んで私が書いたの。
『藤田嗣治のパリ時代のサクセス -FoujitaはなぜFoujitaになったか』:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20160312/p1


 自分等が「世の中にはなんでこんな現象があるのかなあ」と不思議に思うことにはだいたい、既に学術研究というものがあるもので、そういうところをあたって頂きたい。

去年読んだあるアート批評家の記事より


https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24.phpより引用

絵画や写真が、単独で3次元以上のメディアに匹敵する芸術的効果を生み出すのは、現代では容易ではない。もしかすると、絵画や写真をあえて現代アートに含める必要はないのかもしれない。

 既視感ある言葉。
 まず、横浜トリエンナーレとかそういう場所での大規模展示での鑑賞形態について、そんなに過大評価されても、という。確かに横トリみたいなアートイベントには、絵画も写真も鑑賞には向かんよ?とてもじゃないけど、ジェフ・クーンズ(印刷)や蔡國強(火薬仕込んだ導線で描く)さんみたいなことでもやらんと、空間が埋まらないもんねえ。だから会田さんなんかは段ボールで作ったり、布にフレーズ書いて垂れ幕にしたり、チープ路線ひた走ってるよねえ。段ボール使うことに省力以外の特に強い意味は本当にあるのかねえ。「何かやって下さい」と受注受けたらやれる範囲でやるしかないだろうし、構想と制作に何年もかけてらんないでしょうしねえ。

https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24_2.php
平面作品を相対化する敵はアートワールドの外にはない。敵は内部に存在する。絵画や写真以外の、映像、インスタレーション、パフォーマンスアートなど。2次元の静止画像に比べ、情報量が圧倒的に多い作品群である。映像には時間という次元が、インスタレーションには空間という次元が、パフォーマンスには両方の次元が加わっている。その意味で前2者は3次元作品であり、パフォーマンスは4次元作品と言える。
伝統的には彫刻を立体作品と呼ぶ。立体はもちろん3次元であり、彫刻はだから3次元作品ではあるけれど、今日において情報量の少なさは隠すべくもない。とはいえ、例えばクーンズ、村上、ハーストらの立体には重層的なレイヤーがある。素材のバラエティと相俟って、観客の知的好奇心と想像力を刺激する。2次元静止メディアの平面作品よりも、確かに1次元分、情報量は多い。

 こんな説明で説得されるアートワールドの人がもしもいたら、頭痛い。少なくとも、私がやっていることは情報量やコンセプチュアルさではそこいらのインスタレーション作家に全く負ける気がしねえ。あの「五百羅漢」なんてツッコミどころしか無いだろ。何が1次元情報が少ないだ、11次元宇宙にでも行け。大人しく作品と向き合って鑑賞することがそんなに耐えられないお子ちゃまなのか。遊園地のアトラクションにでも乗ってろ。あ、昔、舞台は記録にほとんど残せないから映画芸術よりも劣る、と評してたのが村上龍で、それから30年後の現在、伝統芸能の良さを発信する本を出版するという180度の転向をしたけど、まあどうでも良いんだけど。あれだ、数式や言葉のみによる表現だってある意味、視覚表現よりも情報量は多いわな。

芸術は爆縮だ

 そういうことなんです。色んな知識の収集と経験とを積み重ね試行錯誤し、それを取捨選択して画面上に凝集させられたのが、絵画や写真や書や映画における秀作になるのです。
 芸術批評において、インスタや現代アートの映像やパフォーマンスアートに関しては、芸術の専門家でなくても社会学やその他様々な分野から参画可能なのだで、なんとなく補充が利いてしまう。一方で、例えばフィルムによる撮影技術重視の映画や写真や絵画への芸術批評なんかは、他分野からの代替が利きにくいところがある。媒体についての知識をある程度要するのだ。といって、絵画、写真、撮影技術重視の映画の方がインスタや映像作品等より優れてる、という話をしてるわけではない。媒体の優劣のことかと、話の意味を取り違えないように。
 絵画というオーソドックスな表現手法を私が採っていることについては、色々理由は挙げられるが、ひとつには、数々の王道を往った学者から学んできたことが私には大きかったから、というのがある。その前に私にだって色々迷走があったわけです。ある人の言葉で、「キリスト教の権威を批判するなら誰よりも神学を修めなくてはならない」という意味の言葉があって、ほぼ私の座右の銘みたいなもんだが、王道や正統をもし批評的に捉えたいのなら、やはり自分も王道をマスターせよ。

スマートなステートメントを書きたいなら「科学的用語の濫用」問題というのを一回ググってみたまえ

 有名なソーカル事件、ソーカル・ショックのことだが、アート界での作品のステートメントやアーティストトークにおける、己が言葉の単なる箔付けと権威付けのための無闇な政治風味な用語や思想用語の濫用について、もしやる気があるなら考え直されたし。


 同じ芸術でも、映画や小説や漫画や音楽では、言葉に対してもうるさいし批評が盛んなのに、なんでアート界隈では無風状態なんでしょうね。たまにあっても上のような頓珍漢なものしか出てこないし。作家は作家で、馬鹿無双的な態度とりやがるし。あらゆる芸術の世界の中でも、アートって、言葉に対する無頓着さでは格別ですよね。ということで、私は図書館へ美術批評家を発掘する旅に出ます。

展覧会の感想をTwilogから発掘する(弐)エル・グレコからコンテンポラリーまで

Twilogで可能な限りの展覧会感想を掘り出してここに並べるシリーズ、第二回目。2012年10月〜11月までのまとめです。
前回:『展覧会の感想をTwilogから発掘する(壱)レーピンから近代日本画、コンテンポラリーまで』http://d.hatena.ne.jp/YOW/20180113/p1

エル・グレコ

大阪国立国際美術館 2012年10月
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2012/id_0913163004.html

エル・グレコ『無原罪のお宿り』 1607-13年 油彩、カンヴァス 347×174cm


国立西洋美術館蔵、95.5 x 61cm




国立国際美術館常設、宮永愛子作品

2012年10月



アラブ・エクスプレス

森美術館 2012年10月
https://www.mori.art.museum/contents/arab_express/

twitter:254927726518099968:detail 

Joana Hadjithomas & Khalil Joreige:http://hadjithomasjoreige.com/
展示の状態と、観光地ポストカードのうちの一枚





与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄

国立新美術館 2012年10月
http://www.nact.jp/exhibition_special/2012/given_forms/

これだけですすみません。柴田さんも辰野さんも好きなんですが、特に柴田さんの写真作品は、ほんと、美術科高校の時に真似して、、ガッシュで、、、描いたりしてました。



マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝

神戸市立博物館 2012年11月
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2012_03mauritshuis.html



ヤーコプ・ファン・ロイスダール『漂白場のあるハールレムの風景』




現代絵画のいま キュレーターからのメッセージ展

兵庫県立美術館 2012年11月
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1210/index.html

↑上はリンク切れ。作品サイト:http://www.geocities.jp/office_ishidatakashi/japanese_top.html

トップページ(http://nobuyuki-osaki.com/)のこの作品が、この時のものだと思われ。





居城純子さんの下の作品はこの時の出展ではなく、台北のアートフェアで撮らせてもらったものだが、色彩も構成も非常に洗練されてた絵画を制作する作家さん。


渡辺さんにしろ居城さんにしろ一見極シンプルな作りのようで、実物のキャンバスや画材や壁のマチエールが洗練されてるところが大きいので、実物でないと良さはなかなか伝わらない。いかにミニマリズムと言えど、良い絵画作品というのはあまねくそういうもんです。


この作品も上の渡辺さんの作品も、ミュージアム等でのカチっとした展示で観てこそ、というものになっている。

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展覧会の感想をTwilogから発掘する(壱)レーピンから近代日本画、コンテンポラリーまで

 Twilogで可能な限りの展覧会感想を掘り出してここに並べるシリーズ、始めてみます。第一回目は2010年7月から2013年7月まで。2010年以前のは取り出せませんでした。今後、第2回第3回と続きます。

束芋:断面の世代

大阪国立国際美術館 2010年7月
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2010/id_0710164354.html



ICC OPEN SPACE2010

ICC 2010年11月、ちょうど油彩テンペラによる初個展の開催(http://d.hatena.ne.jp/YOW/20101119/p1)で東京に滞在してた時。

http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/2010/Openspace2010/Works/index_j.html

作品の説明するツイートしか出来ていなくて、面白い展覧会だったけど割愛、しようかと思ったけど、自分のための記録でもあるのでいちおう。
クワクボリョウタさんのこのインスタレーションはこの時が初見



池田亮司

ギャラリー小柳 2010年11月

2009年に都現美での池田亮司展を観てからファンです。2010年以前のはTwilogでは掘れないのよ。
http://ryojiikeda.mot-art-museum.jp/







蛇足でした。


山川冬樹さんのインスタレーション

東京都現代美術館コレクション展 2010年11月

この時、タイムラインではNHK大河の龍馬の話題で埋まってたんですよねえ


小谷元彦 幽体の知覚展

森美術館 2010年11月
https://www.mori.art.museum/contents/phantom_limb/exhibition/index.html

ん、この時はまだこれだけか。


MOTコレクション クロニクル 1947-1963|アンデパンダンの時代

東京都現代美術館 2011年4月
http://www.art-it.asia/u/admin_expht/qiftFyXI83BhWLrVDzE2

中村宏氏の絵と比較されることがあって。まあこの後、観た反五輪の作品では「ああやっぱり巧いなあ」と思わされることもあったり。


フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展

Bunkamuraミュージアム 2011年4月
http://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/11_vermeer/index.html

古典の銅板を基底材にした細密描写観ると、一つの埃も混じってなかったりしてたぶん、漆器職人さんのように、生活空間と作業場をしっかり分離して、作業場には何も持込まないようにして描いてるんだろうなと思ったりする。うちらは生活空間の中で作業もしてるから。
そう、未だに調べてないのでよく分からない。




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2011年8月にはニューヨーク10日間の旅行へ。メトロポリタン、グッゲンハイム、MoMAMoMA PS1、ニューミュージアムチェルシー街等巡っての美術展の感想を下記にてまとめてる。

↓その時の二つだけを抜粋



岸田劉生

大阪市立美術館 2011年9月
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/past_23_kishidaryuusei2



榎忠展

兵庫県立美術館 2011年11月
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1110/index.html









https://youtu.be/QzWOYvrfCPI*1


レーピン展 国立トレチャコフ美術館所蔵

Bunkamuraミュージアム 2012年10月
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/12_repin/index.html

これは、ヴァシリー・イワノヴィッチ・スリコフの描いたロシアでは最も有名な絵画の一つ『モロゾーヴァ夫人の逮捕』という大作のことなんだが、


小さい頃実際に観たというのは、これの大作のための習作の方だったんだよな。まあしかし、内心を咎められ逮捕される状況が芸術作品として描かれる、というのが子供なりには衝撃的で、同時期に観たレーピン筆による複数の『革命家の逮捕』と題する絵画とともに、その後の私の人格形成に大きな影響を及ぼしたのだったw


回り回って2018年開催する個展『二月革命』で、モロゾーヴァの帰依していた「古儀式派」をテーマに入れ込むということになろうとはこの時思いもしてなかったりして。モロゾーヴァ夫人の逮捕のオマージュも作品の中に入ってます。



後年、古儀式派について調べだすようになると、皇女ソフィアも古儀式派の思想的背景があったと分かるなど
↑この辺、まだ調べてないが、Wikipediaによれば、ソフィアは政治に乗り出したことから「ふしだらな醜女」という中傷を流され、レーピンのこの大作もそのスタイルに乗っ取ってることから、まあ矛盾は無いと考えてよろしいかな、分からないけど。


京都国立近代美術館コレクション展

2013年7月

こういう温かで且つ巧い絵画の良さは、画像では半分も伝わらないよなあ、


竹内栖鳳、てすさびで描いたラフな絵でも、一目で腕の良さが伝わる。でも自分には心からは良いなあと思えないところがある。うーん何とも言い難いw







今回はこれまで。次回に続く。

*1:『2011/08/31 に公開 ナチス占領から起こった旧ユーゴスラビア動乱の時代を背景に、50年間も地下生活を送った人々の姿を狂騒的に描き、カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞するなど高い評価を受けた群像劇。終戦や国家解体を知らない地下生活者、戦争を機にのし上がるパルチザンなどが、ジプシー音楽をバックに混沌としたドラマを繰り広げる。監督は、『ジプシーのとき』『パパは、出張中!』といった作品で、世界中にファンを持つエミール・クストリッツア。戦争への強烈な皮肉とブラックユーモア、エネルギーあふれる独特の世界観に圧倒される。』