蠅の女王

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展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ(参)会田誠『天才でごめんなさい』展をめぐる記録(2013年1月-2月)

会田誠『天才でごめんなさい』展 森美術館 2013年1月
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/


長い前置き

 この展覧会は、2013年1月25日とある団体から会田氏の『犬』シリーズに対し、「児童ポルノ」「少女に対する性的虐待」であるとする抗議文(https://www.paps.jp/moriart-group-statement)が森美術館へ寄せられたことを端にして、アート関係以外でもTwitterでは様々に波及し、議論がなされたので、展覧会に対する以外の発言も追って記録したいと思う。他者のツイートの引用もしたが、あくまで自分のアカウントに載せた発言や、私とやりとりのあったツイートに限ることにした。それ以外のやりとりは、当時の騒動の様子を伝えるこのまとめを貼っておくに留める。

 議論としては、こっちのTogetterの方がずっと内容が良いと思うが。


 抗議文によると絵画作品を「児童ポルノ」「少女への性的虐待」としていることから、昨今、Twitter界隈では所謂「表現の自由戦士」と称されるクラスタが「フェミ」と彼らが目す相手への危機感を煽る、これが大きなキッカケになっていたのかなと、改めて思ったりする。
 さて、ツイートを振り返る前に、先に私の考えなどを改めて書いておきたい。炎上の対象となった『犬』シリーズについては、発表された1990年代終わり当時、私は、この作者の目先の勘の良さ、嗅覚の良さみたいなところにいたく感銘したものだった。まず「新しい表現」だと感じたのだった。『犬』シリーズの中では特に下に上げた作品は、今の私から見ても、構成といい、絵画としての完成度が高いと先ず評価出来る。また、これには例えば古代ギリシャ彫刻等で部位が欠けた人像を愛でることを、美術鑑賞の上でのフェティシズム ―倒錯として捉え直してみる、という作者の意図があったのではなかったかと考えている。



会田誠『犬』シリーズより


 で、同じ頃、国外でもRoman Slocombeがオシャレなサブカル誌でも話題になってきたりで、嗜虐的あるいは被虐的なフェティッシュを追求する作品が、SM誌の商業イラストではなく現代アートとしてやりとりされているという状況が、当時としては「とんがってる」ものとして、サブカル界隈でも受けとめられていたように思う。まあフェティシズムのアートは古くからあったんだけども。

参照:Roman Slocombe


参照:Roman Slocombe

 その前に、村上龍の小説がキッカケで日本ではSMが妙に世間やお茶の間まで認知されるようになっていたり、国外でも「ハイリスク系」と言われた小説が流行したこともあった。その中で特に有名なのは『アメリカン・サイコ』かな。

参照:『ハイ・リスク』な作家たち――現代アメリカ小説の新潮流(『GQ Japan』創刊 3 号 1993 年秋あたり) 山形浩生: https://cruel.org/gq/gqrisk.html
 ハイリスク系といった刺激物表現も、この10数年20年経過で、当然のことなのだが、ずいぶん新奇さも褪せてきた。
 『天才でごめんなさい』展へは、私は抗議文が発表される前に行ったのだが、展示のゾーニングもされてあり注意書きも立てられてあったので、作品の評価はともかく、施設側としては基本的にこれで問題のないものと思ったし、基本的に、あの展覧会についてはそこは今も大体私の中で変わらない。「性的・暴力的表現を、不意打ちのように目にしてしまう」といった旨の批判については、美術館という展示空間への入館は、街を歩いててブラッと入る店や看板を見かける・コンビニの雑誌表紙問題や電車の吊り広告問題とはまた違うと考えている。『犬』シリーズの場合、反社会的な内容を含む(会田氏はそれを推奨して描いてたわけではない)が、「反社会的な表現」に関してはそれこそ哲学なり美学なり社会学なりの知見から整理して語られないと、どうしてもグダグダになりそう。さらに、性的表現に関しては、暴力表現とあまり同様に出来ないところもあるという気がする。
 当時のTwitterでの炎上は、主に抗議文に対するツッコミだったように思うが、館側と作家の改めて返答で出した回答やツイートなどがどうも精彩を欠いていたため、私も確かこれを境に、芸術と表現の自由とか公共性について考えるところや見方が変わってきたかと思う。少なくとも、作者や展示側は予め「世間」の反発はおり込み済みだったはずと見なして良いと考える、そうした反発をも作品世界に取り込めたらそれは表現者としては大変な偉業となるだろうけど、そこまで期待しなくても、このSNSの発達した世の中で、作品に添える言語表現もキチッとそれなりに更新させる必要があるのではないかと考えた。視覚芸術の作家にもこうした言語活動は今後必要になっていくだろう。そしてそれは、SNSで昨今、所謂性的表現の自由派等の人々が警鐘を鳴らすような、「政治的正しさの追及、強制」とはまた違う、すぐれて才覚の問題でもあるなと私は考えてる。

 ああ前置きが長くなった。



展覧会と作品について

並びは必ずしも時系列でなく、話の内容で並べ替えをしています。


私もさなぎさんと呼ばれるなど



1月25日、ある団体による森美術館への抗議文が公表され、方々で議論噴出



このツイートの日、峯岸みなみ丸坊主動画公表がSNSを駆け巡りまして。
 


 私は以前なら単に「ゾーニングさえすれば好きに勝手にやれば良いんじゃ」という立場だったが、この会田誠展の騒動以降、普段の発言でももう少し踏み込む?ようになった。ゾーニングや性表現、アーキテクチャ等に関する法学等の本を個展が終わったら次回の構想のためにも読むことになるけど、まだ手がつけられてない。


パロディって、鑑賞者に内容伝わるのが早い反面、表現としては安易なことも多く。
タチコマのパロディでした。

※※鍵垢ですが発言者の許可を得ました。
あたしかさん鍵RT:.@YOW_ まぁそれはそうですが、ああいう形で「公共性」概念が持ち出されてくる文脈というか位相に介入するような形で議論のスタイルを作っておくこと(美術作品は本当はそのような位相にこそかかわるのではないか)も重要ですね。というか当方は基本的に後者にしか関心がない(爆)



「釈然としない観客」と現代アート

Ustreamでの会田さん出演のトーク番組を観て。

1996年『紐育空爆之図』


↑「私が建築の集積で描いてた」とはこれのこと。これはキッツかった。↓

F100, acrylic color and mixed media

ジュスティーヌというのは、タイトルをよく知らなかった昔から、私が『犬』シリーズを勝手に言習わしてた呼び名です悪しからず。

「制度」なんて、ただ便利な言葉に成り下がってるのを気にしてる自分。
↑これは、芸術か猥褻か、芸術かポルノかといった対立項の設定自体に対する、抵抗感を示したものかと。今回は、こうした対立項を、警察等ではなく、作者側が設定したものだったわけだ。



この件はこの辺で。
展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ、今後も8、9、10くらいまで続くかと思われます。
ではでは。


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