蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

チャーチルのパラドックス「民主主義は最悪の政体である」を、図説&解読(下)-法の支配 vs 民主「主義」




〜これは、「法の支配って何?」シリーズ6(上)からのつづきものです。〜


  ★チャーチルのパラドックスとは?:
脚注を参照下さい。⇒ *1


前回はパラドックスの1.についてやりました。今日は、2.の「この命題を最上級で定式化したとたん、民主主義もやがて「A集合においても最悪」となるだろう」について中心に、やっていきます。

マルクスによる、「イデオロギー信仰」分析 ―ヒューマニズムにおける問題

まずは、ごひいきさん掴むため、漫画から掲げることに。

この漫画では、<法>一般の効力の仕方の説明を、貨幣の話に置き換え描いてる。元々マルクスの論も、貨幣論として論じられている。(ていうか「法」だと絵に起こしにくいんだYO) また、「宗教」とか「イデオロギー」に内容すげ換えても「可」なくらい、一般性備えた論理、と知っていただきたい。
最初に、ある、テレビCM作りのパターンをイメージして欲しい。

(例)たばこ産業の「あ、ディライト」CM:「OLの※○さんが飲んでるこのお茶の葉は、委託農家☆△さんが育て、その肥料は、○♯の再利用で作られ、○♯の流通は・・・・・も、みんなJTの仕事です。」
上の漫画で言うと、【ハ】⇒【ロ】⇒【イ】と物語を展開させているのが、お分かりだろうか。
ネット論でもこの順序を踏襲したがるパターンが多い。(Google論とか) その方がみんなが心地良いのだ。逆の順序では言いたがらない。つまり、「直接の人間の関係性」は、最後じゃなくて最初に持ってきたがる。
それは、何故だろう。ここで前回で述べた話を思い出して欲しい。
封建制社会というのは「私的な秩序の集積で公的秩序へ」、
公的秩序が直接の人間関係に基づき「人格的に」成り立たされていた、ということを。つまり、それは裏返せば、
直接の人間関係:身分制の上下という支配環境自体、「自然所与」のものだ
という感覚に基づく、秩序観だったわけだ。
宗教社会学マックス・ヴェーバーは、近代化とは因縁関係からの「脱呪術化」の過程ではあったと述べたが、福田歓一言うところの「超越的思考を経ない、生活様式として所与された」脱呪術化は、さらなる呪術化を発動させてしまう。単純な「世俗化」で、脱呪術化による再呪術化が。(前回下の方に書いた「今回のムスビ」を参照)

          • もしマイクロソフトとかが映画会社を傘下にしてCM作ったら、商品のソフトをめぐって、消費者YOW、営業の山田さん、レジの吉田君が3カラムで捉えられ、そこへ製作のメイキングとかオスカーでのショットがオーバーラップされ、これら全てが「同時多発的」な因縁めいた「物語」で描かれ、最後に会社のエンブレムを出す、って作りになるかもしれない。「これもすべて○○の仕事です」というパターンだ。



大きな負荷がかけられた商品を、マルクスは「呪物」と呼んだ。

ブランド品を例にすると、わたしたちは、常識的にはブランド品自体を「呪物」と見なしている。
悲しい時ー! TVで「日本人のブランド信仰」を説教してた老人が、別のファッションチェックでそのブランドバッグ持っているのを見た時ー!!
わたしも電機製品やバッグなど、大切に可愛がっているものはたくさんある。自分の作品見せるときは、「これだけがんがって、完成しました!」と苦労自慢もよくする。
「呪物」の最大のポイントは、モノを可愛がってること自体が問題なのではない、ということである。

スラヴォイ・ジジェク幻想の感染』p.155より。色文字、強調部分はYOWによる



マルクスは「反省的規定」というヘーゲル概念を参照する。
商品の呪物崇拝そのものにおいては、<中略> 実はある対象あるいは人の「反省的規定」でしかない特性が、直接の「自然な」特性だと誤認される。
この商品の呪物崇拝と呪物化された人間関係との類似から、ある逆説的な結論を引き出さざるをえない。
商品の呪物崇拝においてずらされているのは、当の呪物崇拝――すなわち、それまでの国民間の関係の直接の「呪物化」である。(⇒p.165:「信じるというのはつねに、最小限「反省的」であり、『他者が信じていることを信じること』である」→裸の王さま&サンタさん問題として:id:YOW:20070509))
商品の呪物崇拝は、かくて呪物化された社会関係との間の奇妙な中間段階となる。社会関係がもはや呪物化されてはいないものの(身分制解体で脱呪術化したものの)、呪物崇拝が「事物間の(社会的な)関係」に置き換えられている段階である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

同上、p.156
貨幣がまさに対人関係の形代(かたしろ)に過ぎないのではなく、制度が「具体的個人」間の直接の操作に還元されないからこそ、象徴の制度を物質化するものとして貨幣は登場するのである。
同上、p.154
マルクスは、生産の社会関係が事物どうしの関係に移されておらず、人と人との間の直接の関係(主人と奴隷の間の支配関係)として体験されるのに対し、資本主義においては人と人との関係は自由で平等なものとして体験されると言う。
つまり支配そのものは「事物の関係」に置き換えられているので、ある意味で資本主義の場合よりも(封建制の方が)透明になる。

関連参照記事⇒*2


貨幣制の流通、イデオロギーの支配、宗教や慣習の支配、<法>一般支配の【イ】段階は、「人間の直接の関係:【ロ】」において常に他者(あるいは世間中のみんな)にずらされる・先送りされていくことで、「支配の発効」がマックスの状態となる。*3


ところで、マルクスというと「宗教はアヘンである」の台詞。『ヘーゲル法哲学批判序説』の記述らしいが未読。「呪物崇拝」の理屈からすれば、単純に「宗教なんかアホですネー」と言ったものだとは考えにくい。

ど根性の感染 ― 明治のナショナリズム突貫工事

イデオロギー関連で。次は、明治政府が「近代化には、宗教感染広めるのがが手っ取り早そう」と西欧を真似したという話。


プロテスタントの生き様というのは、「使命感を持っておのれの宿命に生きること」。

左『ガラスの仮面』 / 右『攻殻機動隊SAC』笑い男事件 より 
「天職」もまた、プロテスタントから派生した言葉である。

          • 「使命感」は、その人間に「動機」とど根性と濃密さを与える。(個人感染の方が効き方が強力。)北島マヤ、アオイ君は、使命感に突き動かされてる中、そこで「幸福」は目的意識にあまりのぼってこなかったりする。*4 世界宗教一般でも、本来「帰依すること」とは、そういう「幸福という名のご利益」のためじゃない筈だが。

そんな宗教の副産物で、民主「主義」も誕生、となった。(神のもとの平等)

          • プロテスタントは本当に「宗教の革命」がしたかったんだろうか?あれは宗教集団の中で負け組の闘争で、あくまで「副産物的」に唱えることになった「平等」の思想の方が、革命の真の狙いだったのではないか?(宗教は建て前だった?) 後年、改革の旗手ルターも負け組粛正に手を貸す。

自由な個人が「自発的な賛同」で秩序を形成するというイメージがまず宗教の組織に生まれ、政治社会にも適用。この宗教⇒政治への類似から、君主制の無い共和制が生まれた。「元来、非国民の思想(ルソーいわく)」のキリスト教だったのだがやがて、社会契約論的「自発的合意による支配」を受け入れるようになる。


明治日本政府は、そんなキリスト教システムを採用、「唯一神としての天皇」を改めて据え、その聖性の「全国感染」に努め、「天子のもとでの平等」を家父長制アナロジーとして、士農工商の解体、「義務教育」、徴兵制導入等を進めた。

パラドックス3.「かつ、そんな最悪なものに、賭けろ」

おさらいというか補足。
「平等もまた擬制である」

「多数の反映」により、民主主義の道具になった議会制

          • 本来、民主主義と関係のない議会という機構に、普通選挙実現で「社会の多数を反映させる」圧力をもち、議会を民主主義の道具にしていくことになった。(同上、p.145)

代表制は「社会規模に対する答え」に過ぎない

          • 近代国家の規模を考えると、代表制でなしに民主主義を機構化することは難しい事情がある。しかも、代表原理それ自体、民主主義的なものと考えることは出来ない。にもかかわらず、民主主義の機構原理となってるのは、「政治社会の規模」の問題への一つの答えとしてと、「民の選択」を政治のリアリズムに結び付けておく意味を持ってること、こういう事情があるからに過ぎない。(同上、p.135-137)
          • ↑自由とか平等の価値原理はそのまま実現されにくいが、「まがりなりにも現実」にするのは、制度化機構化された場合だけ、なのである。(同上、p.128)



民主主義の歴史を見ると、宗教の熱狂と粛正、ギロチン恐怖政治、ファシズムや全体主義の普通選挙からの誕生、「民主主義のための戦い」という戦時プロパガンダと、まるで「集団狂気の見本市」のような眺めもある。


早合点しないで欲しいのは、「擬制に過ぎない(モノに過ぎない)」と世俗化に頓着(生活様式化)することが、パラドックスの正答なのではない。(それで敗北するのは「神」でもなくイデオロギーの崇高さでもなく、世俗の日常の方だ。「呪物崇拝」の域を出ない)
「フィクションを信ずるとは、フィクションの自己目的格を防止し、これを相対化することだ」(丸山眞男⇒参照

          • ナチズムもまた、普通選挙によって誕生したが、代議制や多数決というのが「フィクションに過ぎないから」と軽蔑し、自分達は「直接の大衆の喝采によって表現される有機的な国民と総統との結合」を目指すとした。



「賭けろ」という、「超越論」に通じるような言葉がパラドックスの最後に現れるのは、

【イ】⇒【ロ】⇒【ハ】
の「本来の順」で見れば、
その「究極の根拠のなさ」により、【ハ】⇒【ロ】⇒【イ】と「遡及的に」感じ入る「崇高さ」よりもっと、ヘンな「超越」性に出くわすから。

          • 紙幣も「実態」はただの紙切れでしかないとも言えるわけだ。「客観的に措定」しようという試みは、やがて唯名論以前な神学と同じものになるだろう。人間にとっての価値は、人間世界の内側の問題に過ぎない。

【イ】に当てはめられる【ロ】、当て嵌めることで自分の社会的位置やアイデンティティを「自覚」している【ハ】。
この滑稽なヒューマニズムの逆説を知ってからこそ、「最悪のものに賭ける」という自己感染(再帰化)は始まる。





「法の支配って何?」part7に続く。(休み明けに予定)

*1:民主主義という政体がはらむ堕落の可能性について、ウィンストン・チャーチルの有名な言葉がある。いわく、たしかに民主主義は『あらゆるシステムの内で』最悪である(:B集合の事)、と。そこで問題なのは、『他のどのシステム』も民主主義以上ではない(:A集合の事)、ということである。(1947年11/11下院演説) これが、パラドックスといわれるのは何故か…。3つの項目が挙がる。【1】「A集合で、それ以上のものが無かった」事実から、「最良である」との結論を導いてはならない。【2】この命題を最上級で定式化したとたん、民主主義もやがて「A集合においても最悪」となるだろう。【3】かつ、そんな「最悪なもの」に、賭けろ。(id:YOW:20070719より)

*2:NHK解説委員室ブログ 視点・論点 「シリーズ戦後『若者の[[ナショナリズム]]』」 大澤真幸より『しかし、ここにはさらなる転換が待ち受けています。 たとえば、私は神を信じてはいませんが、教会では礼儀正しく礼拝につきあい、信じているふりをいたします。なぜでしょうか。 私ではない誰かが、本気に信じているからです。 つまり、信じているふりをするということは、本気に信じている他者の存在を前提にすることであり、その意味では、その信じている他者の世界の中に身を置くことなのです。 』

*3:法の支配問題でいうとこうだ。「過ちは違反を参照するのではない。つまり合法や違法に関する規定を参照するのではない。過ちは法の純粋な発効を参照し、自らが何かを参照しているという単なる事実を参照するのである」アガンベンホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』p.44より

*4:

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『ぼくは、ぼくだけがたまたま知りえた 情報 の確認と伝播を、自身の「使命」と 錯覚 し、奔走した』:  アオイ君にとって、企業の不正告発する、名もない私的メールが「天啓」となった。笑い男オリジナルは僕じゃなくどちらかと言えば、あのメールの方だ、と。この、見知らぬメモや手紙を拾うことから派生するシチュエーションの型は、ある意味宗教的。TV生中継を通じて「僕宛てのデムパだと捉えたい」と「コピーのコピー」の連鎖が社会で始まり、「無から有を生んだ」。哲学では使命=意味というわけで、言葉の命題も含む喩え。(「配達される郵便」など)。※注:ただし、「届く前から受取り人」という宗教的な「目的論的な弾道」は否定される。アオイ君セリフ『そしてぼくは、消滅する媒介者となった。 あたかも、新作を 発表 しないことで、その 存在 を誇張されてしまう 作家 のように。 つまり、それは 「消滅することによって、 社会 システム の動態を規定する媒介者であり、 最終的には システム の内側にも外側にもその 存在 の痕跡を留めない」』後半は三位一体論の大澤真幸アレンジ。