蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

今日の歴史画 -私は何を為すべきではないか-

『TOKYO P.X.』 F100号 パネルに油彩とテンペラの混合技法

タイトルは岡本太郎の『今日の芸術』をシャレております。作品掲載のサイトは現在新装開店準備中です。

個展に至るまでについて

 10月5日から27日にかけて unseal contemporary で個展『マッカーサーの子供たち -八月革命-』を開催、これで自分のマッカーサーシリーズをいったん終える事とした。
 数年間のスランプを経て歴史画というのに至ったきっかけは、なんとなしに描いたこの絵だった。これを印刷して名刺代わりにすることを思いつき、そしてある学芸員さんに会った時に「今度マッカーサーで個展やろうと思ってるんですよ!」と口をついて出た、というのが一連のスタート地点となった。あの瞬間、自分で言っておいて内心で驚き、まるで天啓でも降りたような心地だったのは覚えてる。

 そもそもは、私が未就学の頃から情操教育に熱心だった親が美術館によく連れて行ってたので、古典芸術に親しんできたこと、家に沢山あった雑誌『アサヒカメラ』などからフォトジャーナリズムや戦争写真に関心を持つようになったこと、歴史に関心を持てる家庭環境があったこと、などが素地としてある。
 またスランプだった時期に、法律家が中心となったアメリカのアフガン・イラク攻撃反対運動のためにポスターデザインの提供をして、そこから国際人道法など法に対する関心が出て、自分でレポートや本を読むようになった、というのもある。
 その他、様々な素地と知識が交わって、歴史画という手法を思いつくに至った、というのはすでに個展のステートメントhttp://d.hatena.ne.jp/YOW/20120902/p1でも発表した。

歴史画制作での「消極性」

 私は本を読んでも映画を観てもレクチャーを受けても、そこから、作品に積極的に盛り込めるヒントを得るというよりも、学べることのほとんどは「まず何を為すべきではないか」の、いわば規範である。
 2回の東京展のために広島の平和記念公園やハワイのパールハーバーへ取材に行ったが、実地で見聞きした物事が自分の表現に盛り込めることもあまり無かったりするもので、本を読んでも映画を観ても、ただ「作品上で◯◯すべきでない」という、どこまでも至って「消極的」な確認になるのがほとんどなのであり、細かな「〜してはならない」をおさえた後にやっと「積極的」な表現が出るものである。
 実はこうした慎重さは、何よりも、サイエンス・フィクションの小説家やコミック、映画などから学んだ創作態度であり、私も政治SFであることを目標にしている。
 そしていかにプロパガンダやカウンターではない表現が出来るか、ノスタルジーに依らないか、「祈りを捧げる」ことに依らないか、といった否定からしか、古典とは違う新しいことも出来ない。
 祈りはしない呪物崇拝(後述)的にやらない、という縛りを課さないと、新しいものにはならない。祈りをシニカルに描き、呪物からも距離を置く態度をまず出さなければならない。しかも、大衆に訴えるプロパガンダでもない、という「〜でない」という否定からしか、何も出てこない。

 そして、自分のような日本のマジョリティとして生まれた者は、今回のように戦争をテーマとするのであれば、60年以上もの平時が続いて稀な豊かさを享受してきた先進国市民で、この平時がなぜ成り立っているかということこそ、内容に盛り込むのが今のところベストであると思っていて、この国に住むことで享受しているリソースの豊かさはガンガン積極的に活用すべきだ、とも思っている。

「祈り」と「賭け」

 
 今回作中に右のようなデザインのカードを登場させて、乙女たちが千羽鶴をチップにして賭け事をしている、という状況を描いた。(デザインの発想段階では、中世キリスト教美術に見られる三位一体の表象とベンヤミンの「歴史の天使」*1とがあったのだが、結局は今回のテーマでそれは直接には関係してこなかった)カードの登場する意味についてお客さんからよく質問をされた。意味するところとしては、「祈るしかない」ということと「賭ける」というのは、「具体的な方法や打開策を打ち出すことをなるべく先送りにする」「最後にカードを引いてしまう者が負けなのでババを先送りにする」という、似たものとして発想していた。同じ場面に千羽鶴という祈りのシンボルと、ポーカーのカードが共に描かれてることで、祈りを捧げるための理想化された乙女たちの姿の意味するところが、祈りのある種のヒロイズムと、打算的で建前であるという二方向に分裂するような効果を狙っていた。
 


 千羽鶴も祈りを捧げる乙女の像も、それは呪術での依り代・トークンのような機能をしており、千羽鶴を折ることや無垢な乙女の像を掲げることで、人々は平和へのなんらかな打開策・効能を心から信じているわけではないのだが、トークンとしては流通している。

  また、このブログを書く前に山形浩生氏の美術雑誌での記事『アート・カウンターパンチ』(http://cruel.org/diatxt/)を読んだのだが、正直全面的には同意できる内容でなかったが*2、「ある社会問題に依拠した内容のアート」に対する批判自体については首肯する。そこでは、私もNYで観たあるアフリカの像を例に語られていた。


 昔、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でアフリカ民俗アート展というのをやっていて、そこに展示されていた呪い人形の衝撃をぼくは忘れることができない。それはこんな、粗雑な木彫りの人形だ(文字通りの木偶、ですな)。だが、そこには釘やらブリキ片やら、無数の金属のかけらが打ち込まれている。作った人が、相手に対する呪いをこめてその金属片を次々にうちこんでゆくのだ。それがもたらす心の不穏さは、ちょっと並の美術品なんかでは太刀打ちできない。


 その前後のアートの合理性/不合理性についての話は、ここでの「千羽鶴などのトークン」の話と直接関係ないように思われるかもしれないが、関係している。アフリカの呪い人形は、その効能については確信をもって制作され、活用されている。だから、現代のアーティストの創意では到底創られ得ない不穏さが漂っている。それは「呪い人形がある必然性」が我々の社会にもはや無いからだ。
 一方で、千羽鶴や祈る乙女像、またはアートに、平和問題解決のための合理性も必然性も無いということは、制作者も観る人々も心では理解しているにもかかわらず、トークンとして活用しようとしており、いわば、アフリカの呪い人形とは違って、制作上のステートメントと内心での確信とが乖離しているのである。こうした心理的現象は、マルクスの通貨論に登場する「呪術崇拝」と合致してる。呪術崇拝とは、腹の中では貨幣を「ただの紙切れにすぎない」ことを理解しているがトークンとして皆が信じていることを信じている、という現象をいうものである。そしてトークンである紙切れは最終的には「ババ」に過ぎないかもしれなく、最終的な価値付けはドンドン先送りされていく。そうしたマルクスの貨幣についての考えが、千羽鶴とカードのアイディアのベースにはあった。
 もう一つは、カイヨワの宗教社会学的な遊びと占いの考察も当初ヒントになっていたが、これについては私の理解よりもはるかに@さんの記述の方が深いので、後述にて紹介する。


  作品の構想段階で、私は反戦や平和をテーマとしたアートや、野坂昭如などの反戦児童文学を観ていった。そこでよく感じられたのは、石原慎太郎が制作総指揮した映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』といったヒロイズムの作品とどこか通底しているということだった。(件の映画は全然観ていないけど)上の山形浩生氏も書いているように、まるで無垢な犠牲者の語りを成立させたいがために、カタストロフという壮大な背景を必要としているかのようで、日本ではやがて『エヴァンゲリオン』や『最終兵器彼女』といった作品が生まれることになる。どちらの作品でも、もはや遠景で行われている カタストロフの理由は明示されず、近景で、か弱い少年少女の痛みや悩みが繰り広げられているのが、ダイレクトに遠景のカタストローフと連なっていく。(エヴァは私も大好きですけどね。)私としては、そうした少年少女がいるとしても、それに対し心を痛めるというのを素で盛り込むのではなくて、その通底しているイビツな心性自体をまず見せるという、メタな表現をとるのがベターだと思ったわけだ。今回の作品群でそれを出し切ってるとは思えない。まだこれから繰り返し取り上げていくことになると思う。
 同時に、エヴァ最終兵器彼女、あるいは『機動戦士ガンダム』シリーズもそうだと思うが、そうした平時日本の徒花のような作品群の先で、現代的な表現を目指したいとも思ってる。

後衛の位置から

 そして、2年前と今回とで3人ほどのお客さんから「絵にメッセージ性や落としどころをどうして持たせないのか」といった指摘がされた。私が「落としどころ」を明示しないのは、数十年先の社会の変化をどうしても想像してしまうからだ。芸術の進展や変化より、現代の社会の流れの方が圧倒的に早いので、アートが提示することの先を世の中は絶対行ってしまうものだと思ってる。芸術の進展は経済や政治や思想やテクノロジーに比べて、どうしようもなく遅い。こればかりはしょうがないことだ。しかも、メディアとしても、芸術作品というのは大変に非効率でもある。

 例えば、小林多喜二は今でこそ読まれてるが(実際すごく文章が巧いしエンターテインメント性もある)、一時期、数十年は全く陳腐だとされていた。具体的メッセージが強いほど、20年30年経た時の陳腐化やキッチュ化は避けられない宿命にあるように思う。それをなんとか過ぎて残れば、古典になるのだが。
 私の歴史画の美術家としてのスタンスは、前衛であるよりも、丸山眞男の言ったような「後衛の位置から」が適格であろうと考えている。



偶然の遊び(アレア)

 10月27日個展最終日に観に来てくださった@さんによって、カイヨワの遊び論から個展レビューを上げていただいたので、紹介する。自分からカイヨワの名前を出しておいてなんですが、正直に告白すれば、走り書きメモを元にしていたに過ぎないので、私の理解よりも造詣が深い。

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『_YOWさん個展(2012年10月@東京)の感想メモ』http://togetter.com/li/397306

 正直に告白すれば、アゴンについて念頭になかった(^^;。占いに関する記述からヒントを得たのだったが、短い読書メモを元にしていた。ただ、レビュー頂いて、作者の思わぬ方にサブストーリーが広がっていくという、新鮮な体験をしました。こうして日本のアニメやコミックは発展してきたのだなあと、改めて思いました次第です。


yow.hatenadiary.jp
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*1:一応正確な記述をここに残しておくことにします。

ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読 (岩波現代文庫)

9章「『新しい天使』と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、休みなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ」

*2: (1).認知科学と「社会的な問題意識」を対置させるというところには違和感がある。(2). 「描き方」や「速そう」という感覚に訴える認知的な発見(?)をする、となると、表現のあり方としてはある程度規定されるのではないか。(3). ある問題意識についての知識が無いと理解できない芸術は果たして「だめ」なのかどうかというと、一概になんとも言えない。背景の問題意識だったり、タイトルなどの文章と、作品とを交互に見合わせ、それで面白さが深まる作品というのは沢山あるのではないか。(4). これは@さんからの指摘で「「芸術には普遍性がなくてはいけない」と主張し(すぎ)ているのではないか、という点。などなど。