蠅の女王

小倉涌 画家 美術家 アーティスト 歴史画

押井守演出舞台『鉄人28号』感想。 -パトレイバーより前にあった戦後史としての『鉄人28号』



 先月、とあるアート系イベントにて、研究科課程で演劇を研究テーマにしている留学生の方と会い、この舞台を観に行く話をしたら「じゃあ感想書いて送ってよ!」という約束になった。今日は久しぶりにレビューをアップする事に。

先に、作品の紹介。

【物語概要】
 鉄人28号には実は、兵器タイプには不要の特殊仕様が施されていた…


 ――巨大セクサロイド。



というのはウソで、

梅田芸術劇場のサイトより(http://www.umegei.com/s2009/tetsujin28.html


 太平洋戦争の末期、大日本帝国陸軍の決戦兵器として開発された巨大ロボット「鉄人」。
その試製28号が戦後民主主義の守護神として蘇った。
そう、ビューンと空を飛び、正義も悪もリモコン次第の巨人「鉄人28号」だ。
2008年、東京湾岸の埋立地――聞こえるのは、吹き抜ける風か、野犬の遠吠えか。
一人の盲目の老人が遠い日の思い出を歌い上げる…。
時は移り、1964年。戦後の終焉を告げる国家イヴェント――東京オリンピック前夜。
首都には野犬狩りの嵐が吹き荒れていた。警察署長の大塚は、戦後的なるものの一掃に狂奔。
それを支持する敷島博士と、戦後的価値として純粋培養された美少年・金田正太郎は、テロリスト集団「人狼党」がたくらむ、東京オリンピック阻止計画に巻き込まれる。
正太郎、敷島博士、そして人狼党の首魁・犬走一直との怪しい思想的三角関係。
果たして、テロリストの仕掛けた阻止計画とは…。正義と悪の狭間で今、鉄人が飛び立つ。

 ちなみに、私は未だ横山光輝の原作漫画も、アニメも観てない。(漫画発表期間は1956年〜1966年。ラジオドラマ、実写ドラマ、アニメ放映がこれまでにあったらしい)


 舞台は半ばミュージカルとなっていて、川井憲次氏が音楽担当。押井監督から「宝塚のように」という注文がされてたようで、曲はロマンチックに。『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』『イノセンス』のテーマやサントラを歌った、民謡歌手の西田佳づ美氏が中盤で登場し、書き下ろしのパロディー曲『東京五輪音頭』を歌い、盆踊り場面が繰り広げられた。こういうのは80年代『うる星やつら』から観てきた人には懐かし嬉しい演出なんだろうなー。(隣席の男性が、すごい嬉しそうだった)また、『ケルベロス 地獄の番犬』で主演してた藤木義勝氏も、機動隊員役で出演していた。
 音楽的に一番好きだったのが、可愛い正太郎をめぐって、「反体制派」の犬走一直と、戦後日本の体制を称賛する敷島博士とが引っ張り合うという、ラブコメ的でチャーミングな場面だった。お互いの主義志向を歌で掛け合う。その間を正太郎が揺れ動いて一緒に歌うのだが、二つの違う歌が切れ目なく繋がれていき、見事だった。


 正太郎少年を見守るお人好し・警察庁の大塚署長は、押井版ではおそらく最も改変が施されてる。戦中は元特高警察で思想犯を追い、敗戦後は一旦戦犯となってから公職に復帰したという、危険思想フェチの変態、且つ、ドジっ子みたいな設定になっている。役者は、サンプラザ中野くんで、彼の声質からも『うる星やつら』の「メガネ」を想起させた。


 正太郎少年は南果歩氏。「ケツネコロッケお銀」と二役で。わたしは彼女の舞台を観るの初めてで出演ドラマもあんまり観てこなかったが、わたしは声フェチだから、彼女がなぜ起用されたか、よく分かった気がする。声をはるとパァーンと厚いゴムがはち切れるような印象。重みもあって、啖呵切る時は金属的にかすれるところがあって、良かったなあ。監督も彼女に惚れたんだと思う。


 舞台中央にはずっと、錆びをまとった7mの鉄人28号がひざまずいて置かれていた。そこへ南果歩氏による素直で元気で可愛い少年、という組み合わせがくると、あぁこりゃ懐かしの『機動警察パトレイバー』の泉野明ちゃんのご降臨なのだあと感慨する。
 押井さんは昔「野明たちみたいな、ああいうのはほんとは嫌い」と仰ってたのを覚えてるが、『機動警察パトレイバー2 the Movie』では
「私、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。レイバーが好きな自分に甘えていたくないの」
と野明に言わせている。あの野明の台詞の心境が、正太郎少年に後半引き継がれている、という感じだった。

パトレイバーより前にあった戦後史としての劇場版『鉄人28号』

 パンフレットによると、昔に「鉄人28号」映画版の企画があったらしく、その時の企画案が紹介されていて,とても興味深い内容になっている。
 曰く、大塚署長が公安の人間で、正太郎少年は60年安保に乗り遅れた青年として改変。2〜3部構成で、朝鮮戦争、60年安保、東京オリンピックという日本の戦後史を描こうとしていたらしい。その企画が流れて、パトレイバーに至ったのかな。パト2のテーマが、二・二六事件と、もう一つは60年安保だった。(戦後のアメリカの占領状態へ日本を戻す、というのが荒川氏のビジョンだった)

 
 正太郎が公安の大塚おじさんと共に追う敵は、今回いわゆる「過激派」(とラベリングされたものたち)なのだが、これはインターナショナルな赤軍とか民族派とかよりも、むしろアナーキー。公演ポスターのキャッチフレーズは
 「純真無垢は罪である」
なのだが、その“イノセンス”には二つの方向性が持たされている。
 一つは、過去を無邪気に忘却していくものとしての「大衆」というのと、もう一つは、アナーキーの、何も成さない・何にも捉えられない、というのと。
 その両者の背景に、「戦中・戦後のイデオロギーの転換を体現」(パンフより)しつつ「無垢なる視点」でもある鉄人の躯が、セイタカアワダチソウの茂る空き地に座している。


 正太郎の親代わりの敷島博士は、押井さんにかかると、プロジェクトX的なナショナリズムと、戦後の保守リベラリズムとを表象するキャラクターとして登場する。

 
 流れてしまった映画版の企画では、朝鮮戦争と「M資金」(これは事実かどうかは知らないが)という、歴史の事実を取り込もうとしていたのだが、そうなったら、舞台版よりもっとおどろおどろしいストーリーになっただろうと想像されてくる。
 鉄人は半島にも兵力として配置されるのだろうか? となると、M資金から量産型も開発され戦地に投入、それが40年経ってレイバー生産工業の発展に結びつく、というのだったかも。
 また、朝鮮戦争時点での「正義も悪もリモコン次第」(テレビアニメ放送での主題歌より*1)というのは、どうなるんだ?
 そして戦争特需による高度経済成長という、プロジェクトX神話の裏側が…。などなど。


 押井さんによれば、舞台をやるんなら、宝塚のような完成されたエンターテーメントのフォーマットに従い、娯楽的な「お祭りにしたい」という考えがあったらしく、わたしが上に想像したようなおどろおどろしい設定には今回は至らなかった。
 舞台版では、オリンピク開催による先進国クラブ仲間入りに伴う近代化開発によって“圧殺されるものたち”(ここでは野犬や渡世人のようなお銀も含む)が抵抗として、開会式での航空自衛隊のアクロバット飛行・チーム「ブルー・インパルス」の発進を妨害する。そこでロケットを取り付けた鉄人が代わりに会場上空へ向かい、飛行機雲で五輪マークを描くのだが、それっきり正太郎と共に敷島博士の元には戻らず行方知れずになる。*2 40年以上経って、正太郎はセイタカアワダチソウの空き地に戻ってくる。お銀のようになって。

忘却/アナーキー

 今回レビュー書くのにずいぶん時間がかかって、なかなか仕上げることが出来なかった。失踪した正太郎がお銀に成り代わって戻ってきたというラストに、わたしは引っかかりを覚えて帰ってきたのだった。「少年がおばさんに替わった」というのは別に良いのだ、気にならない。
 「無垢」からまた別の無垢の「アナーキー」になって戻ってきたというのが、どうもしっくりこなかった、というか。
 そこで、『真・女立喰師列伝』を公開時観てなかったので、とりあえずDVDを買いに行って観てみた。

真・女立喰師列伝 スタンダード・エディション [DVD]

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 まず、立喰師や今回のお銀というのは「昭和のアナーキーさ」を体現するような人物として設定されていると。「立喰師」というのは押井さんが創作した架空の香具師・事師、またはドン・キホーテやミュンヒハウゼン男爵のように稀に顕れた特異な「癖」のようなもので、屋台で飲み食いをして、出された物について講釈ぶって人を煙に巻いてやり負かす(勘定を払わずに出る)というもの。「プロ」でも、顔役になったり仲裁役などはかって出ず、一匹狼で行動するものとしてると思われる。「プロ」でやってる場合、言い替えるなら、渡世人という表現が遠からずのように思う。


 立喰師のプロ、というので想起したのが、一つは10何年か前、ビートたけしが弟子に言ってるらしい説教で、「芸人なら、下積みの間喰えなくてもバイトなんかするな、ヒモをやって喰うべきだ」と語っていたもので、ビートたけしはわたしは好きじゃないけどこの格言はなんだか気に入ってた。「アーティストは」「絵描きは」と言い替えると、まあ、ダリとかピカソとか、女性に喰わせてもらってたりしてた。 今はアーツ・マネジメントという考えが出てきたり色々だが、わたしが好きになるタイプのアーティストというのは大体、ナイーヴであるよりも、交渉能力高そうな人たちかもしれない。蛇足だが、ピカソ、というかキュビズムや近代の抽象絵画はあまり好きじゃない。抽象は第二次大戦後からのでないと、何だか面白くない。デュシャンは除く。
 

 話は戻って、なんで正太郎が戻るとお銀に成り代わったのか、だけど。
 要するに、「戦後の忘却のされ方、そのスピード」というのに対し、根無し草のように生きる立喰師の「アナーキー」とがどう対峙しうると考えられてるのか、そういう気にし方をわたしはしていたわけだ。押井さんはアナーキーという言葉を使ってなかったし、端的にアナーキーとだけ理解されるのを嫌うはずだけど。
 かといって、なら「コミットすべきだ/主体化すべきだ」なのか、それはプロパガンダだろう、と自分ツッコミが入る…。
 「忘却の上に建つ平和は、虚構なのだ」というのと、立喰師の口上や「色気」の虚構とを並べたのだと思うが。
 やっぱりね、未だここが引っかかったまんまです。

*1:歌詞掲載:http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/te/tetujin/tetujin.html

*2:Wikipedia「東京オリンピック」より:『開会式ではブルーインパルスのF-86が上空で五輪のマークを描いたことで話題を呼んだ。』