歴史画はなぜ叩かれるのか
のっけからこのタイトルだが、少なくとも20世紀半ばからこっち、具象のリアリズム手法で絵画やるとか、さらに歴史画をやるとか言うと
「今更そこになんの可能性が残っていると思ってるの?」
といった反応を受けるのは日常茶飯事で、私は機会を捉えてはこうして各方面に向けてエクスキューズを提示するのは、私のアーティスト人生においても大変意義深く大事な営みになっている。また、具象を描いて活動すること自体の前衛では無い「後衛性」に、何らかな理由が求められるようになったのも、コンセプチュアルアート以降の流れでもある。
20世紀モダンアートの戦略として規定されるイリュージョン絵画について
今日も一日 pic.twitter.com/WcruPffCOd
— 涌 ⚓️歴史画『二月革命』個展9月 (@YOW_) 2018年5月4日
- 作者: クレメントグリーンバーグ,Clement Greenberg,藤枝晃雄
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2005/04/01
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個展『二月革命』開催が9月で、迫ってきて、改めてグリーンバーグや特に19世紀ロマン派の美術家を批判する論評などを選んで読んでいったのだが、
- 21世紀からの今後に、具象で古典技法でリアリズムで歴史画絵画を描くこと
「リアリズムでイリュージョニズム的な芸術は、技巧を隠すために技巧を用いてメディアを隠してきた」と糾弾する時の、この「技巧を隠す技巧」というのは元は古代ローマの名言からの引用らしいが、形式主義の絵画批判においては、
- 筆致は極力残さないように、盛り上げず平滑に塗って、(どう仕上げるかは、同じ油彩でも媒剤の調合や基底材の下塗りの仕方などが異なるのだが)
- 写実的に描く油彩技法
についての言葉になっているが(ここからイリュージョニズムという言葉が出てくる)、だからそのタイプの油彩画というのに限定された話なのか。「イリュージョニズム絵画」に対する形式主義による批判に適合しない古典作品は、ざっくりとしたハッチングで描かれる版画にしろ、ベラスケスやレンブラントetc.の特徴、東アジア他の絵画など、いくらでもマッチしない事例があがってくる。20世紀のモダンアートの戦略から遡求的に、絵画の「イリュージョニズム」を位置づけているが、範囲の定まった中の話で、モダンアートの戦略を地固めするがために見える。
『さらに新たなるラオコーンに向かって』では、ロマン派以降の絵画のメディウム(ここは樹脂油や調合油のこと)の役割を抑えられるようになったとあるけど、それはロマン派ではなくて、印象派が一通り過ぎ去って以降の具象絵画(典型としてサルバドール・ダリ)の手法ではないかと疑問を持った。
さらに言えば、私は今回の読書で初めて気が付いたのだが、かの有名な評論『アヴァンギャルドとキッチュ』の一番最後に、グリーンバーグによる追記があって、
私は愕然としているのだが、これが印刷されてより数年後にレーピンが戦場の場面を一度も描いたことがないことを知った。彼はそのような種類の画家ではなかったのである。私は、他の誰かの絵を彼のものだと考えていたのだ。そのことは、19世紀のロシア芸術に関する私の偏狭さを示していた。(1972年)
とある。こうした勘違いからも、彼ら(敢えて複数形)は、たくさんの鑑賞経験を積むことなく印象派以前の西欧絵画というものについての漠然とした印象で批判対象に挙げてるのではないかと、私は前々から穿ってみている。『アヴァンギャルドとキッチュ』でのレーピン批判を読むたび、ちゃんと実物鑑賞したわけじゃなさそうだと思ってきたが、案の定だった。リアリズムと一口に言っても、色んなタイプ、特徴、手法があるものだが、素材、まあメディウムと言ってもいいけど、に対する注意深さや過程は、彼らの存外に形式主義のモダンアートとそう違わないことかもしれない。
それと、この形式主義の批評と、作品の、現実にあるものへの様々な考証の正誤とか観察のありようとか、そういったことは全て今後の絵画に必要なものではないと考えているから、あっさり切り捨てるのだろうか?とりあえずグリーンバーグが「文学の絵画や詩への侵食」を忌み嫌った理由は、19世紀文学のどこら辺にあるのか、目星がよく分からないでいる。フランス語の有名な古典詩を引き合いに出されてもそこにアクセス出来ないところで、「ああこれが、世に言う芸術教養の壁というやつか」と改めて思ったりする。ともかく、グリーンバーグが絵画の「不純さ」として、他のメディア(ここでは媒体やジャンルのこと)から借用した折衷主義と述べているが、その場合も、他のどんなジャンルの芸術もそうであるはずだ。純化された芸術として音楽を挙げられているが、音楽にせよ鳥の鳴き声だったり光が差す様子だったり水の流れだったり、そうした何かを模すということは行われている。
しかし、再現つまりリアリズムというのが描法ではなく、思想や何らかな政治思想の「単に再現しようとするための絵画」を忌み嫌っていたという点では、私にとっても理解できるものではある。
美術にぶるっ!:戦後のコーナー「実験場1950s」も見応えあって楽しかった。一番最初に、原爆の衝撃と治安維持法下の芸術家の敗北感みたいなところで切り取って見せる。それから、砂川闘争や労働組合活動といった左翼系の流れ、古代日本のルーツへの関心の高まり、日本の民俗的な再発見の流れなど
0:05 - 2013年1月15日
美術にぶるっ!:特に、砂川闘争にや労組協調路線の展示は力入れてたような気はする。こういう左翼系芸術ムーブメントってもう今後はあり得ないんだなあ、というのを改めてしみじみと思う。芸術家会報の展示でも、当時のアジ文ではよくこんな内容で人を動員できたなあ、今との隔絶感が湧いてくる
0:13 - 2013年1月15日
美術にぶるっ!:まさに「大きな物語があった」とはこのことだ、と実感する。ああしたアジテーターが、現在もう全く通用しないし人の動員にも役に立たない状況なのだが、このエートスwの変わり様はなんだろーとしみじみと思うなり
0:17 - 2013年1月15日
情報量の違いや、何だかんだでテクノロジーの影響が大きい気もするRT @awajiya: @YOW_ わかる気がします「大きな物語」って,いまの思想文脈の用語でイメージされるような堅固で精緻なもんじゃなく,ひどく粗雑で大味なもので,だけど多くの人がそれに魅せられた.という(…
0:28 - 2013年1月15日
大きな物語は終わったと言いつつ未だ傾向は全然あると思いますRT @awajiya: YOW_それはすんなりとは納得出来ないけどw 今の情報技術は少量生産少量消費に「も」向くから,「大きい」ことのメリットが相対的に減ってる.けど「大きい物語」に魅かれる性向が変わったわけじゃない
0:34 - 2013年1月15日
政治的テーマ以外にグリーンバーグらが「意味過多」の絵を嫌ったもう一つの理由は、シュルレアリスムへの反発もあるかと。
舞台『市ケ尾の坂』:マジックナンバーの多様と言えば、例えばビアズリーが思い出される。グラフィティのタギングみたいな3本の棒は性器を表してるとか。あと、シュルレアリスムでモダニズムの映画の秀作『人でなしの女』の美術で、調度の柱の数が暗に何々を意味してるといったもの。 pic.twitter.com/r6AIHbBXUT
— 涌 ⚓️歴史画『二月革命』個展9月 (@YOW_) 2018年6月13日
舞台『市ケ尾の坂』:この頃の「意味過多」の芸術の潮流への反発からも、グリーンバーグらの批評スタイルは生まれていったのだと私は考えてるが、
— 涌 ⚓️歴史画『二月革命』個展9月 (@YOW_) 2018年6月13日
人でなしの女から更に発展を示したシュルレアリストが、ルイス・ブニュエルの映画だった。https://t.co/H43MwWieFK
ナショナリズムと芸術カテゴリーとサブカルチャー
歴史画について、以前にも何度か調べて書いてみる機会があった。
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私は自分の作品を構想するにあたって、過去の戦争画や歴史画を目指してるわけではない。さじ加減として、どの程度ケレン味を出すべきか(スペクタクルさ)といった手がかりにすることもある。私も、高校大学と美術史は教わってる以上に、10代の時から政治思想史の本を読むのが好きだったので、歴史画の啓蒙主義とかナショナリズムを人民に認識させる役割だとか、当時としては当然であったオリエンタリズムに対する現代の批判であったり、アカデミズムの啓蒙主義と対抗するロマン派勢とのマッチポンプ関係のダイナミズムであったり、そういった基礎知識はあるし、何よりナショナリズムと表現の問題については、昔から関心を持ってきたことだ。
「アカデミズムの啓蒙主義と対抗するロマン派勢とのマッチポンプ関係のダイナミズム」に関しては、あまりに広範で専門的で、私はここで軽く展開する自信はもたない。
ここで何が言いたいかというと、よく言われる、19世紀のロマン派絵画や社会主義リアリズムや現代の戦争画の類に対する批判は、ごもっともなんだけど、私はまずナショナリストではないし、オリエンタリズムとかノスタルジーとか様々な注意を予めやってるし、プロパガンダ的な表現はやらないことにしているし、その上で、物語性のある歴史画を具象表現で古典技法で描くこと自体について、批判あるとしたら何があるのだろうか、今や制作方法やメディア(媒体)の問題ではなくなったのだ。グリーンバーグらも当時そこまで想定してはいなかったろう。私は以前、絵画という「メディア」ゆえに藤田嗣治を戦争協力に至らしめた、という奇妙な批判を言われたことがある。ところが昨今では、ナショナリズムへの素朴な傾倒表現は、絵画やハイカルチャーの世界から、漫画、世界的潮流でヒップホップ、POPソングといったサブカルチャーの世界に移ったように、さまざまな迷作が散見されるようになった。ゆずやRADWIMPSの例が新しい。20世紀、映画も音楽も舞踊でも戦争協力はあったわけで、前衛芸術においてはこれは学生の時集中的に調べた対象だったが、ファシズムの文化を担った未来派という総合芸術の前衛グループが例にあるわけで、芸術のカテゴリーで何か政治的内容の方向性を規定するのは、ただの事実誤認である。
ファインアートの課題
現代は、エンターテイメントやサブカルチャーと、ファイン・アートを端的に区別することには意味も無くなっているが、一つファイン・アートの方のみ課されているものがあると私が考えてるのは、自分の欲望等について充分に自己分析的があるかどうかという点で、エンターテイメントでの表現においては秀作であるためにはそれが必ずしも無くてはならないものでもなく、しかしファイン・アートとなると、少なくとも(戦後の、公民権運動以降の、)先進国で活動するなら、自分の欲望のありようや好悪、社会観、政治的指向について、所与とせずそれなりに分析を深めたり、関連する学説や創作物、それらの成立したプロセスについてインプットした積み重ねがあるかどうかが、少なくとも私にとっては大きな評価ポイントになっている。これは一つの例だが、あるアーティストで、よく「自分はロリコンだから」と自己規定して済ます人がいて、そのロリコンという指向、嗜好を所与のものとして単純に考えているわけだ。その一方で、現代アートの世界では往往にして、キュレーターも作家も、ステートメント等で現代思想用語を散りばめてあっても、その思想用語と書いた人の認識や制作物の技術面等がどうも釣り合っていないことがままある。情報量の多い少ないが作品の優劣ではないが、インプットしたことを取捨選択して表現に昇華するのは、技術の問題も大きい。絵画では具象でも抽象でも、ことの外、技術に則った表現力が重要な芸術カテゴリーだと思ってる。
最後におまけ・団体公募展系のこと
かつてアカデミズムで「このモチーフやこの主題はこう描くべきだ」と規範化されていたことへの反発の意図であることは理解するが、音楽や舞踏といった他の芸術とは違って、美術ではもはやアカデミズムは世界的に廃れ、「絵画はこう描け」といった規範は存在しないのだが、未だ、20世紀モダンアートの批判の手法で自分が批判されると、妙な感じはいつもある。
- 作者: 松宮秀治
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後日さらに書いた記事
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展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ(四)コンテンポラリーの映像作品から曾我蕭白まで(2013年1月-4月)
『WHAT WE SEE 夢か、現つか、幻か』展 大阪国立国際美術館 2013年1月
大阪国立国際美術館 2013年1月
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2012/id_1207134358.html
この時は、アートにおける「ジャンル」というのは、なかなか侮れないなあと思ったでござるの巻。
国内外の映像作品ばかりを集めた展覧会だったのだが、今まで鑑賞した美術展で指折りの見ごたえがあって、記憶に残る良い企画だった。
Tweetでも書いてるが、携帯電話やメールなどが発達してる今だからこそ、国外への出稼ぎ労働者たちが自分のホームグラウンドとの繋がりに、夢見とか虫の知らせとかの霊性の察知に心を寄せてるところへ着目してるのが、観ていてしみじみとくる作品だった。
発表は97年だから、その数年後に911が起きてるが、メディアを巻き込むタイプの劇場型犯罪の先駆け(?)としての旅客機ハイジャック犯罪に着目して映像作品にするという、これは「現代アートの映像」というジャンルならではな表現だったと言えるな。作中、日本赤軍クアラルンプール事件とよど号ハイジャック事件も取り上げられている。
全編公開URL
https://vimeo.com/231411671
Tweetの説明が、一体何言ってんだか、悪文だったが、
テレビ放送の黎明期、フルシチョフの訪米、ソ連の科学技術優位時代といった東西冷戦時代をテーマに、西側世界のアイコンとしてこの作品ではヒッチコックを配していると。ヒッチコックはテレビドラマでも映画でも、冷戦世界のスパイ・サスペンスを色々と製作していている。そして代表作映画『鳥』(1963)をフィーチャーして、所々に烏を狂言回し的にカットアップ。ヒッチコックは、自身の姿を撮った映像を多く残しているから、そこからもカットアップしてきて、歴史的報道映像の中に放り込まれていく。ヒッチコックは英米でアイコンとして相当馴染みが深いが、ケネディやニクソンといった政治家よりもここでは時代の象徴的な扱いをしている。歴史的な映像をモンタージュして新たな作品をつくるというのは、先ほどの『dial H-I-S-T-O-R-Y』も同じ手法だが、効果としてはそれだけで強いものがあるので、良い作品だけ観られたのは良かったな。私がやってる「歴史画」というやつも、これらに通じるやり方なんで、注目した。
全編公開URL
https://vimeo.com/133335917
参照記事:『EIJA-LIISA AHTILA
THE ANNUNCIATION』https://www.guggenheim-bilbao.eus/en/exhibitions/eija-liisa-ahtila-the-annunciation/
これは、グループカウンセリングも併せてという印象だったが、あるワークショップで数人の女性が、受胎告知を受けたマリアの心情などを語り合い、それぞれが家に持ち帰り反芻して、皆で劇として演じてみる。篤い信仰の背景があってこその作品だと思う。撮影もきれいだったし、丁寧に製作されていた。
出展作をDVDにまとめたの、ギャラリーショップで販売してなかったか、またみておこ。
『美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年』展
東京国立近代美術館 2013年1月
東京国立近代美術館の所蔵品からの企画展
http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=79085goo.gl
藤田嗣治の戦争画については、この後調べる機会があって、こちらにも書いた。
この上京の時に東京国立博物館にも行ってるが、東博のレビューはこちらにまとめてある。
ボストン美術館 日本美術の至宝展
大阪市立美術館 (2013年4月)
http://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/boston
部分拡大
参照図は両方共部分のみ
では今回はこの辺で。また来月更新、いつまでも続く。
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展覧会の感想をTwilogから発掘するシリーズ(参)会田誠『天才でごめんなさい』展をめぐる記録(2013年1月-2月)
会田誠『天才でごめんなさい』展 森美術館 2013年1月
https://www.mori.art.museum/contents/aidamakoto_main/
長い前置き
この展覧会は、2013年1月25日とある団体から会田氏の『犬』シリーズに対し、「児童ポルノ」「少女に対する性的虐待」であるとする抗議文(https://www.paps.jp/moriart-group-statement)が森美術館へ寄せられたことを端にして、アート関係以外でもTwitterでは様々に波及し、議論がなされたので、展覧会に対する以外の発言も追って記録したいと思う。他者のツイートの引用もしたが、あくまで自分のアカウントに載せた発言や、私とやりとりのあったツイートに限ることにした。それ以外のやりとりは、当時の騒動の様子を伝えるこのまとめを貼っておくに留める。
議論としては、こっちのTogetterの方がずっと内容が良いと思うが。 抗議文によると絵画作品を「児童ポルノ」「少女への性的虐待」としていることから、昨今、Twitter界隈では所謂「表現の自由戦士」と称されるクラスタが「フェミ」と彼らが目す相手への危機感を煽る、これが大きなキッカケになっていたのかなと、改めて思ったりする。
さて、ツイートを振り返る前に、先に私の考えなどを改めて書いておきたい。炎上の対象となった『犬』シリーズについては、発表された1990年代終わり当時、私は、この作者の目先の勘の良さ、嗅覚の良さみたいなところにいたく感銘したものだった。まず「新しい表現」だと感じたのだった。『犬』シリーズの中では特に下に上げた作品は、今の私から見ても、構成といい、絵画としての完成度が高いと先ず評価出来る。また、これには例えば古代ギリシャ彫刻等で部位が欠けた人像を愛でることを、美術鑑賞の上でのフェティシズム ―倒錯として捉え直してみる、という作者の意図があったのではなかったかと考えている。
会田誠『犬』シリーズより
で、同じ頃、国外でもRoman Slocombeがオシャレなサブカル誌でも話題になってきたりで、嗜虐的あるいは被虐的なフェティッシュを追求する作品が、SM誌の商業イラストではなく現代アートとしてやりとりされているという状況が、当時としては「とんがってる」ものとして、サブカル界隈でも受けとめられていたように思う。まあフェティシズムのアートは古くからあったんだけども。
参照:Roman Slocombe
その前に、村上龍の小説がキッカケで日本ではSMが妙に世間やお茶の間まで認知されるようになっていたり、国外でも「ハイリスク系」と言われた小説が流行したこともあった。その中で特に有名なのは『アメリカン・サイコ』かな。
ハイリスク系といった刺激物表現も、この10数年20年経過で、当然のことなのだが、ずいぶん新奇さも褪せてきた。『天才でごめんなさい』展へは、私は抗議文が発表される前に行ったのだが、展示のゾーニングもされてあり注意書きも立てられてあったので、作品の評価はともかく、施設側としては基本的にこれで問題のないものと思ったし、基本的に、あの展覧会についてはそこは今も大体私の中で変わらない。「性的・暴力的表現を、不意打ちのように目にしてしまう」といった旨の批判については、美術館という展示空間への入館は、街を歩いててブラッと入る店や看板を見かける・コンビニの雑誌表紙問題や電車の吊り広告問題とはまた違うと考えている。『犬』シリーズの場合、反社会的な内容を含む(会田氏はそれを推奨して描いてたわけではない)が、「反社会的な表現」に関してはそれこそ哲学なり美学なり社会学なりの知見から整理して語られないと、どうしてもグダグダになりそう。さらに、性的表現に関しては、暴力表現とあまり同様に出来ないところもあるという気がする。
当時のTwitterでの炎上は、主に抗議文に対するツッコミだったように思うが、館側と作家の改めて返答で出した回答やツイートなどがどうも精彩を欠いていたため、私も確かこれを境に、芸術と表現の自由とか公共性について考えるところや見方が変わってきたかと思う。少なくとも、作者や展示側は予め「世間」の反発はおり込み済みだったはずと見なして良いと考える、そうした反発をも作品世界に取り込めたらそれは表現者としては大変な偉業となるだろうけど、そこまで期待しなくても、このSNSの発達した世の中で、作品に添える言語表現もキチッとそれなりに更新させる必要があるのではないかと考えた。視覚芸術の作家にもこうした言語活動は今後必要になっていくだろう。そしてそれは、SNSで昨今、所謂性的表現の自由派等の人々が警鐘を鳴らすような、「政治的正しさの追及、強制」とはまた違う、すぐれて才覚の問題でもあるなと私は考えてる。
ああ前置きが長くなった。
1月25日、ある団体による森美術館への抗議文が公表され、方々で議論噴出
私は以前なら単に「ゾーニングさえすれば好きに勝手にやれば良いんじゃ」という立場だったが、この会田誠展の騒動以降、普段の発言でももう少し踏み込む?ようになった。ゾーニングや性表現、アーキテクチャ等に関する法学等の本を個展が終わったら次回の構想のためにも読むことになるけど、まだ手がつけられてない。
芸術は爆縮だ! -「絵画は死んだ」への画家小倉の返し
「芸術は爆縮だ!」
音楽界と違ってアート界には主流も傍流もとっくに無えよ
今日もしばれるのう。もそっと寄って火にあたれや。
先日東京での地域アートとアーティストの関わりについてのシンポジウムに行ってきた時の話をしよう。普段、自分が構築したアートクラスタ薄めのTwitterタイムラインでキャッキャしてるもんだから、たまに下界へ出て現代アートクラスタに直接会うと、オーソドックスな技法での具象絵画で制作していることを自己紹介すると、
「美大教育粉砕、制度化された◯◯粉砕!俺たちは過去のやり方に縛られずカウンターアート張っていくぞー!」
とばかりに敵愾心のようなものや不振な目を向けられることがあるのを、すっかり忘れてしまうものなのじゃ。逆に、例えば公募展系の作家に出会うと、私が無所属であることや
「誰が買うんだ、こんな重たいグチャグチャと小煩いテーマのいわくつきの絵を。ギャラリーも迷惑してるんじゃないか」
と訝しがられる。アート界というのはそういうものじゃよ。で、その件のシンポの懇親会にて、私はある作家らに「絵画はもはやアートじゃない」とdisられたのじゃ。もう紹興酒片手にラップバトル状態になったのじゃ。あらかじめ断っておくと、私としては、皆が等しく絵画作品を貴重なこわれものとして丁重に扱ってさえくれれば、「実は興味持てないんだよねえ」と言われても、別段怒るようなことでもない。だから今回は他人に絵画への興味持たせることが目的ではない。昨年見かけたあるアート批評家による気になる記事があって、それと一緒に、ここで考えて書き出してみようということだ。
貴族が跋扈した時代
導入に、80年代の進歩的知識人らによる引用と話からしよう。80年代後半から日本は世界第二位の経済大国となり一般市民にも「景気が良くなった」との実感が広まってった頃、日本では「ジャパンアズアナンバーワン!わしら新人類!新しい時代の夜明けぜよ!」という気運に満ちていた時、こんな本が人気があったのじゃ。
- 作者: 村上龍,坂本龍一
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蓮實重彦:映画史っていうのは、簡単に言ってしまえば、グリフィスがつくって、ゴダールが殺した、これで終わっちゃうわけです。ま、ゴダールが脱構築したといえばもっと分りやすいという話ですよね(笑)。
ところが、その間に凡庸さって問題がある。社会の普通の顔としての凡庸さって言うのがあって、その人たちはゴダールに殺されても一向にいたまない。ゴダールの脱構築性を特権視すると、結局その人たちが生き延びちゃうわけですよ。ゴダールによって殺されるのは、対話可能であるが故に傷つく最良の部分になるわけです。僕はその両方を生かしておきたい……といっても、ゴダールとグリフィスの両方を肯定することで、現状をあいまいにしてしまうことじゃあなくて、両方がたえず緊張関係にある状態をうみだしたいんです。ゴダールによって殺されていたにもかかわらず、自分が死んだってことを知らないで撮り続けているような人たち—例えば深作欣二でもだれでもいいですけど(笑)、そこらへんの人たちを批評し得る唯一の根拠は、ゴダールおよびグリフィスを両方自分の中に取り込むことだというふうに思うんですよね。
坂本龍一:凡庸さというのは、その二人を両極においた中間項の凡庸さっていうことですね。
蓮實:ええ。ゴダールの映画が好きだということは、例えばマキノ雅裕の映画が嫌いだということの同義語にはならないということを考えるわけですね。
坂本:映画自体の固有の快楽という、そういうことなのかしら。
蓮實:いや。どうしたって矛盾であるわけですよ。ゴダールが好きだったら、マキノ雅裕のように本当に技術だけでたたきあげてきた人の、一種演歌に近い世界みたいなものはゴダールとともに殺されなきゃいけないはずなんだけれども、僕は、そのようなゴダールの挑発にはあえて乗らないっていう立場をとりたい。
村上龍:ああ……。
蓮實:それはゴダールの問題であるかも知れないけど、僕の問題ではないという気がする。みんなゴダールと同じように考えようとするのが凡庸さの表れでね(笑)。p269-270より
80年代後半当時の典型的な批評言説としてここで挙げてみた。浅田彰さんもこんな調子だったべな。昨今の、SNSで流れてくるアート批評家KYさんとかはじめ、アート界隈の罵倒芸はだいたい、この頃の亜流の使い回しの燃えカスを掃いた後のシミみたいに見える。
蓮實さんがこの鼎談で言ってた意味は、私にも分るっちゃあ分る。内輪相手じゃなくてもっと世の中の新しい動きとか思想とかに興味無いんですか、撮影技術ももはや大したことなくなってるけど、技術以前に・・・・とか。
美術の世界に引き寄せて考えると、その最果てにあるのはてきとうな裸婦像とか情弱な金持ち相手のの画廊とか、そういうことでしょ。はいはい分ってますよー。
蓮實さん自体の人文学等での評価は私はあまり知らないので横に置いておいて、蓮實重彦という人は少なくとも、映画の黎明期から現代作品まで膨大な数を鑑賞をして知見を貯えてきている、高い専門性を備えた無二の批評家であり、同じくお仲間の淀川長治さんからは「黒髭男爵」と渾名されてたわけだが、どなたかが仰ってたが、蓮實さんみたいな貴族の真似を貧相な知見の人がしちゃ、目も当てられないんですよ。蓮見さんや浅田さんやフランス現代思想みたいに「◯◯によって××は殺された」「××はもう死んでいる」宣言なんて、言える玉かっつう(誰とは言わない)
あとはキチンと説明書くのはホントに私には大変だから、この本でも読んで欲しい(省力)
反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか
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『藤田嗣治のパリ時代のサクセス -FoujitaはなぜFoujitaになったか』:http://d.hatena.ne.jp/YOW/20160312/p1
自分等が「世の中にはなんでこんな現象があるのかなあ」と不思議に思うことにはだいたい、既に学術研究というものがあるもので、そういうところをあたって頂きたい。
去年読んだあるアート批評家の記事より
「時代はインスタレーションや映像なのに絵画に流れる人が多過ぎる」と言われてしまったが、やはり評論の皆さんが想定してない、ということで「枯渇ジャンル」とか言われると逆に嬉しくもある / “終章 現代アートの現状と未来 | 小崎哲哉…” URL
https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24.phpより引用
絵画や写真が、単独で3次元以上のメディアに匹敵する芸術的効果を生み出すのは、現代では容易ではない。もしかすると、絵画や写真をあえて現代アートに含める必要はないのかもしれない。
既視感ある言葉。
まず、横浜トリエンナーレとかそういう場所での大規模展示での鑑賞形態について、そんなに過大評価されても、という。確かに横トリみたいなアートイベントには、絵画も写真も鑑賞には向かんよ?とてもじゃないけど、ジェフ・クーンズ(印刷)や蔡國強(火薬仕込んだ導線で描く)さんみたいなことでもやらんと、空間が埋まらないもんねえ。だから会田さんなんかは段ボールで作ったり、布にフレーズ書いて垂れ幕にしたり、チープ路線ひた走ってるよねえ。段ボール使うことに省力以外の特に強い意味は本当にあるのかねえ。「何かやって下さい」と受注受けたらやれる範囲でやるしかないだろうし、構想と制作に何年もかけてらんないでしょうしねえ。
https://www.newsweekjapan.jp/ozaki/2017/06/post-24_2.php
平面作品を相対化する敵はアートワールドの外にはない。敵は内部に存在する。絵画や写真以外の、映像、インスタレーション、パフォーマンスアートなど。2次元の静止画像に比べ、情報量が圧倒的に多い作品群である。映像には時間という次元が、インスタレーションには空間という次元が、パフォーマンスには両方の次元が加わっている。その意味で前2者は3次元作品であり、パフォーマンスは4次元作品と言える。
伝統的には彫刻を立体作品と呼ぶ。立体はもちろん3次元であり、彫刻はだから3次元作品ではあるけれど、今日において情報量の少なさは隠すべくもない。とはいえ、例えばクーンズ、村上、ハーストらの立体には重層的なレイヤーがある。素材のバラエティと相俟って、観客の知的好奇心と想像力を刺激する。2次元静止メディアの平面作品よりも、確かに1次元分、情報量は多い。
こんな説明で説得されるアートワールドの人がもしもいたら、頭痛い。少なくとも、私がやっていることは情報量やコンセプチュアルさではそこいらのインスタレーション作家に全く負ける気がしねえ。あの「五百羅漢」なんてツッコミどころしか無いだろ。何が1次元情報が少ないだ、11次元宇宙にでも行け。大人しく作品と向き合って鑑賞することがそんなに耐えられないお子ちゃまなのか。遊園地のアトラクションにでも乗ってろ。あ、昔、舞台は記録にほとんど残せないから映画芸術よりも劣る、と評してたのが村上龍で、それから30年後の現在、伝統芸能の良さを発信する本を出版するという180度の転向をしたけど、まあどうでも良いんだけど。あれだ、数式や言葉のみによる表現だってある意味、視覚表現よりも情報量は多いわな。
芸術は爆縮だ
そういうことなんです。色んな知識の収集と経験とを積み重ね試行錯誤し、それを取捨選択して画面上に凝集させられたのが、絵画や写真や書や映画における秀作になるのです。
芸術批評において、インスタや現代アートの映像やパフォーマンスアートに関しては、芸術の専門家でなくても社会学やその他様々な分野から参画可能なのだで、なんとなく補充が利いてしまう。一方で、例えばフィルムによる撮影技術重視の映画や写真や絵画への芸術批評なんかは、他分野からの代替が利きにくいところがある。媒体についての知識をある程度要するのだ。といって、絵画、写真、撮影技術重視の映画の方がインスタや映像作品等より優れてる、という話をしてるわけではない。媒体の優劣のことかと、話の意味を取り違えないように。
絵画というオーソドックスな表現手法を私が採っていることについては、色々理由は挙げられるが、ひとつには、数々の王道を往った学者から学んできたことが私には大きかったから、というのがある。その前に私にだって色々迷走があったわけです。ある人の言葉で、「キリスト教の権威を批判するなら誰よりも神学を修めなくてはならない」という意味の言葉があって、ほぼ私の座右の銘みたいなもんだが、王道や正統をもし批評的に捉えたいのなら、やはり自分も王道をマスターせよ。
スマートなステートメントを書きたいなら「科学的用語の濫用」問題というのを一回ググってみたまえ
有名なソーカル事件、ソーカル・ショックのことだが、アート界での作品のステートメントやアーティストトークにおける、己が言葉の単なる箔付けと権威付けのための無闇な政治風味な用語や思想用語の濫用について、もしやる気があるなら考え直されたし。
同じ芸術でも、映画や小説や漫画や音楽では、言葉に対してもうるさいし批評が盛んなのに、なんでアート界隈では無風状態なんでしょうね。たまにあっても上のような頓珍漢なものしか出てこないし。作家は作家で、馬鹿無双的な態度とりやがるし。あらゆる芸術の世界の中でも、アートって、言葉に対する無頓着さでは格別ですよね。ということで、私は図書館へ美術批評家を発掘する旅に出ます。
展覧会の感想をTwilogから発掘する(弐)エル・グレコからコンテンポラリーまで
Twilogで可能な限りの展覧会感想を掘り出してここに並べるシリーズ、第二回目。2012年10月〜11月までのまとめです。
前回:『展覧会の感想をTwilogから発掘する(壱)レーピンから近代日本画、コンテンポラリーまで』http://d.hatena.ne.jp/YOW/20180113/p1
エル・グレコ展
大阪国立国際美術館 2012年10月
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2012/id_0913163004.html
アラブ・エクスプレス
森美術館 2012年10月
https://www.mori.art.museum/contents/arab_express/
twitter:254927726518099968:detail
与えられた形象―辰野登恵子/柴田敏雄
国立新美術館 2012年10月
http://www.nact.jp/exhibition_special/2012/given_forms/
マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝
神戸市立博物館 2012年11月
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2012_03mauritshuis.html
現代絵画のいま キュレーターからのメッセージ展
兵庫県立美術館 2012年11月
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_1210/index.html
yow.hatenadiary.jp
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